< 思考は反応に対する叛逆 | 弱者救済とABC分析 >
文章量:約1600字

コミュハラ

コミュニケーションはみんなが欲するものであると同時にめんどくさいものでもある。

好きな人となら無限に話したくても、嫌いな人だったら一秒たりとも話したくない。

人間とはそういうものである。

一口にコミュニケーションといっても、楽しいものもあれば、ただひたすら苦しいだけのものもある。

みんなが欲しない方のコミュニケーションにはどのようなパターンがあるのか?

まずは先ほど例を上げた、相手が嫌いだった場合だ。

「食事」そのものは生きる上では絶対善だが、「食事」には美味しいものと不味いものがある。

自分には絶対に必要なんだけど、ものによっては受け付けない場合がある。

コミュニケーションもそれと同じである。

絶対に必要なものでも「嫌い」であれば拒絶してしまう。

嫌いに近しく、相手に興味がない場合も楽しいコミュニケーションは成立しない。

愛の反対は無関心と言われるように、関心がないものには愛情もわかない。

鉄道マニアがいくら鉄道について熱く語っても、聞き手側に興味がなければ、ただひたすらつまらない時間が過ぎるだけである。

ただ、嫌いなのはともかく、無関心を拒絶し続けると自分自身のフックが少ないままとなるので、自分の方が無関心の対象になってしまう危険がある。

もう一つのみんなが欲しないコミュニケーションは、ムダに高い思考コストを求められる場合だ。

面接の受け答えや上司への回答がダルいのはこのためだ。

面接で質問する側は用意した質問を投げかければいいだけだが、答える方はシチュエーションにあった最善であろう答えを捻り出さなければならない。

はたまた、上司が「進捗どう?」とだけ言ってきても、部下はかなり具体的な回答をしなければならない。

これが「まぁまぁっスね」で済むならなにもダルいことはない。

質問を投げかける側は往々にして無意識だが、回答する側の回答コストを安く見積もりすぎているきらいがある。

質問する側は軽い気持ちで聞いたとしても、回答する側はそれなりに具体的な回答をしないと回答にならないので、双方のコミュニケーションで思考コストの乖離が発生する。

質問する側も回答する側も思考コストが同じだと思い込んでいるとコミュニケーションを重ねるごとに軋轢が生まれることになる。

人と人の仲が悪くなる原因はだいたいこれで、「私と仕事、どっちが大事なの?」みたいな発言は百害あって一利なしである。

「なんでこうなってるの?」と聞く方は簡単だが、「こうなってる理由」がとても複雑な事情でそうなっているなら、回答側はその複雑なことをわざわざ言語化して回答しないといけない。

「大人の事情でそうなってます」と回答できれば楽だろうが、それが許されることはほぼないだろう。

上記の話を逆説的に捉えると、回答側の思考コストをできる限り質問側で吸収できる人がコミュニケーション能力が高い人であることがわかる。

じつは語彙力が低いほどコミュニケーションが円滑になる。

パリピはアゲアゲで仲良くなる一方、陰キャは同担拒否で仲違いを起こす。

そして、心理的安全性においても「なんでも発言しやすい」なんかより「相手の言動に反応しやすい」環境の方がよほど大事である。

質問しやすい環境であっても、質問に答える側の負荷が高まってくれば、徐々に「めんどくさいこと言うなよ?」となって、発言しやすい空気感は失われてしまう。

レスポンスの思考コストを考慮することはコミュニケーションにおいてとても重要である。

答えにくい質問をする人は嫌われ、答えやすい質問をする人は好かれる。

なぜなら、人間は基本的に反応だけでやり過ごしたくて、思考などというめんどくさいことはしたくないからだ。

反応に抗うにはそれなりの意思力とエネルギーが必要だ。

あなたが普段からTikTokをみているのならば「TikTokで面白かった動画教えて!」の質問には息を吐くように回答できるだろう。

しかし「なんでスマホでTikTokが見れるの?」と聞かれても「知らんがな」と適当に受け流してしまうだろう。

Tag: コミュニケーション