< プロジェクトは芸術でありそれゆえ爆発する | 障害なき絶望と摩擦という希望 >
文章量:約3000字

区切りという儀式

「今年も終わるね」と人々は年末になると口にする。

しかし、冷静に考えてみれば、12月31日の23時59分59秒から1月1日の0時0分0秒に切り替わる瞬間に、この世界で何か特別なことが起きているだろうか?

地球は相変わらず太陽の周りを回り続けているし、私たちの心臓も呼吸も連続的に動き続けている。

昨日の延長に今日があり、今日の延長に明日があるだけで、そこに境界線など実在しない。

それなのに、私たちは暦の上での「区切り」を、まるで実在するかのように扱っている。

「新年」という概念に特別な意味を見出し、「今年こそは」と決意を新たにする。

これは不思議なことではないだろうか?

いや、不思議というよりも、むしろ滑稽でさえある。

年末になると、大掃除をしたり、忘年会で一年を振り返ったり、年賀状を書いたり、除夜の鐘を聞きに行ったりする。

まるで年が変わることで何かがリセットされるかのように。

しかし、リセットボタンを押せば全てが初期化されるゲームとは違い、現実の世界では何も変わらない。

去年から抱えている借金は元旦を迎えても消えないし、12月31日に太っていた人は1月1日になっても太ったままだ。

去年と同じ自分が今年も続いていく。

それでも私たちは「今年こそは痩せる」「今年こそは貯金する」と目標を立て、「心機一転」と何か変わったかのように決意を新たにする。

実在しない境界線を、さも実在するかのように扱い、その境界線に特別な力があるかのように振る舞うのだ。

この奇妙な現象は一体何なのだろうか?

この現象は、人間が言語化によって世界を認識する存在であることと深く関わっている。

連続的な時間の流れを、「年」「月」「日」という単位で区切り、名前をつけることで、私たちは時間を把握可能なものにしている。

もし暦がなければ、時間はただの連続した流れでしかなく、「去年」も「来年」も「今年」すらも存在しない。

過去を振り返ることも、未来を計画することも、今よりずっと難しくなるだろう。

つまり、暦の区切りは単なる便宜上の目印ではなく、人間が時間という抽象概念を扱うための認知的な道具なのだ。

そして、道具を作ったのは人間だ。

実在しない区切りを人間が作り出し、その作り出した区切りに人間が従っている。

これは逆説的な話だが、人間が作り出した虚構が、逆に人間の思考と行動を規定しているのである。

現実は思考化するのと同じく、ここでは道具が使う人の動作を定義するのである。

区切りという道具を作った結果、人間は区切りに従って生きる存在になってしまった。

そして、その道具を使いこなすために、私たちは区切りを「儀式化」する。

大掃除を例に考えてみよう。

なぜ年末に大掃除をするのか?

べつに年末じゃなくても大掃除はできるはずだ。

梅雨前の5月に掃除をしてもいいし、夏休みの8月に掃除をしてもいい。

しかし、私たちは年末に大掃除をする。

それは年末という区切りに「リセット」という意味を付与しているからだ。

物理的な掃除をすることで、精神的なリセットの儀式を執り行っているのである。

忘年会もそうだ。

ただの飲み会なのに、わざわざ「忘年」という名前をつけて、一年の区切りを共同体で確認し合う。

初詣も同じく、新年の始まりを神聖化する儀式だ。(実際には1月4日に行っても初詣なのだが、それはさておき)

こうした儀式を通じて、私たちは人工的な区切りに実体を与え、心理的な境界線を引いているのである。

ここで面白いのは、儀式は実際に効果を持つという点だ。

本来は実在しないはずの区切りが、儀式を介することで現実に影響を及ぼすようになる。

年末に大掃除をして部屋を綺麗にすれば、確かに気持ちはすっきりする。

新年に目標を立てれば、それがモチベーションになって行動が変わることもある。

虚構が現実を動かすのだ。

これはカリスマ性の話にも通じる。

本来は概念に過ぎないものが、人々がそれを信じて行動することで、実際に力を持つようになる。

「新年だから頑張ろう」という気持ちは、客観的には根拠がないが、主観的には十分な動機になりうる。

暦の区切りもカリスマも、人間の認識と行動を変える力を持つという点で共通している。

しかし、ここには大きな落とし穴もある。

区切りに頼りすぎると、区切りがなければ行動できなくなってしまう。

「新年になったら禁煙する」「来月から本気出す」「年度が変わったら転職活動する」

こうした言葉を何度も繰り返しながら、結局何も始めない人は山ほどいる。

区切りは行動のきっかけにはなるが、区切りそのものが目的化してしまっては本末転倒だ。

区切りを待っている間に人生は過ぎ去っていく。

やることとやらないことの差は、暦の区切りとは無関係に存在する。

「やる」人は区切りなど関係なく今すぐやるし、「やらない」人は区切りがあろうがなかろうがやらない。

区切りはやる人にとっては便利な目印だが、やらない人にとっては便利な言い訳にしかならないのだ。

また、区切りは時として秩序として機能し、柔軟性を奪う側面もある。

「年度」という区切りに縛られて、本来は継続すべきプロジェクトが打ち切られたり、逆に区切りのために無理やり完成させようとして品質が犠牲になったりする。

会計年度、学校年度、人事評価の期間、こういった区切りは便利な反面、本来の目的を見失わせる制約にもなりうる。

区切りがあるから計画が立てられる一方で、区切りがあるから本来やるべきことができなくなる。

ここにも道具の逆説がある。

道具を使いこなしているつもりが、道具に使われているのだ。

結局のところ、区切りとは人間が作り出した虚構であり、その虚構を信じることで機能する儀式だ。

しかし、虚構だからといって無価値なわけではない。

むしろ、人間を形作るのは環境なのだから、自分で作り出した虚構という環境に自分を従わせることで、自分を動かすことができる。

虚構が現実を動かし、現実が思考を形成し、思考が行動を生む。

暦という虚構、区切りという儀式は、連続的な時間の流れの中で方向性を見出すための、人間らしい工夫なのである。

そう考えると、「今年も終わる」という言葉は正確ではない。

正しくは「今年も終わると人間が決めた」だ。

年は勝手に終わるのではなく、人間が終わらせているのである。

では、人間が作り出した虚構とどう付き合えばいいのか?

大切なのは、区切りに意味があると信じながらも、区切りに縛られすぎないことだ。

年が変わろうが変わるまいが、やるべきことは変わらない

ただ、年が変わることを言い訳にして、あるいはきっかけにして、何かを始めたり終わらせたりするのは、それはそれで悪くない。

区切りは実在しないが、実在しない区切りを利用して自分を動かすことはできる。

それもまた、人間が持つ自己洗脳の一つの形なのだから。

虚構を虚構として認識しながらも、虚構の力を借りて生きていく。

これが人間という存在の面白さであり、滑稽さであり、そして愛おしさでもあるのだろう。


最後まで読んでもらってから言うのもアレですが、今回の文章は全部AIに書かせました。

過去のブログの文章を学習させて、「12月分の文章を書いて」と雑にプロンプトを投げただけ(微修正のためにちょっとだけプロンプトを追加しましたが)で、このクオリティの文章が仕上がりました。

すごく自分が書きそうなテーマと文体だったので、編集したい気持ちを抑えてあえてそのまま掲載しました。

タイトルもそうですし、別のエントリへのリンクもAIの判断によるものなので、これはすごいですね。

学習素材が良いと結果のアウトプットも良くなるんですね(

Tags: 哲学, 社会