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努力は諸刃の剣

努力は無条件に良いものだと思いこんでいないでしょうか?

こと教育の現場においては「努力」は疑われもしない絶対善として、当然のように取り扱われています。

教える側がいくら労力を割いても、学ぶ側が頑張らないことには成果は出ないわけですから、当然といえば当然です。

どれだけ熱心に教えても、聞き手側が馬耳東風であれば、暖簾に腕押しです。

よって、教育の場では努力は前提条件となり、「努力は大事」と、それを肯定はすれど否定することはありません。

しかし、努力にも負の側面は存在します。

一番分かりやすいのがサンクコスト効果が発生することです。

人間は苦労した分、その頑張りが報われることを期待します。

勉強をすればするだけテストの点数は上がってほしいし、練習やトレーニングをすればするほど試合には勝てるようになって欲しいし、良い記録がでて欲しいはずです。

しかし、世の中はそんなに甘くありません。

努力の量がそのまま結果に繋がらないことは多々あります。

大谷選手より寝る間を惜しんでトレーニングをしても大谷選手以上になれる選手はいません。

何だったら大谷選手はすごく寝ます。

努力量=結果、とはなかなかなりません。

そして、努力が報われなかった場合、今まで頑張ってきた苦労が水の泡になってしまいます。

すごく努力してきた選手でも、結果が出ずに戦力外となって、契約を切られることもあるでしょう。

感情論的には努力は報われてほしいし、やったらやった分の成果がでて当然という無条件の期待もあるでしょう。

そうであるからこそ、努力のベクトルがおかしくて、いくら頑張っても成果が出ないであろう苦労であったとしても、いつか報われる日が来ることを期待し、延々と努力を続けてしまうこともあるのです。

無駄な努力をしてしまうだけならまだいいでしょう。

問題はここからです。

苦労が報われなかった時、その苦労の重さに比例して人は憎悪を抱くようになります。

機会の副作用で書いた2番目の項目のとおりです。

自分が経験した具体的な例を挙げます。

自分は平泳ぎが全くできません。

小中合わせて6年ほどずっと水泳の授業で指導され続け、夏休みの補習にも呼ばれて、人一倍平泳ぎの練習をしていました。

しかし、結局何回平泳ぎのテストをやっても「足の動きが違う」と無限に言われ続け、挙句の果てには体育の先生からも笑いもの扱いされる始末でした。

人よりもたくさん練習して、その結果が泳げるようになるどころか、人から馬鹿にされるだけという結果になりました。

正直者が馬鹿を見るとはこのことです。

それ以来私は水泳が嫌いになり、一切水泳はやらないことにしました。(プールや海で遊ぶぐらいであればします)

本来であれば教育の結果、水泳技術の上達が期待されるところですが、努力した結果、得られたのは水泳に対する憎悪だけでした。

ついでにもう一つ自身の経験を紹介します。

自分は幼少期に斜視(目ん玉が明後日を向いている病気)の手術をしたことがあります。

手術後、斜視側の目を鍛えるために保育園から小学校の低学年ぐらいまでずっとアイパッチ(眼帯)をつけて生活していました。

ずっと弱視側の目しか使えないので、常に一定のストレスを抱えながら日常生活を送っていました。

さらに眼帯をつけている子など珍しいので、周りから若干浮いている存在であることも余儀なくされました。

しかし、手術の時期が遅かった影響だと思いますが、眼帯生活で弱視を克服することはできず、両眼視(立体視/三次元すなわち奥行きを認識する力)を獲得することはできませんでした。

苦労の多い眼帯生活を送らされた挙げ句、結局は障害を負うことになったのです。

野球でキャッチボールが上手くできなかったり、バットを振っても全然ボールに当てることができず、後の体育の授業ではとても難儀しました。(その当時はただ運動神経が悪いだけだと思っていましたが、大人になって両眼視がない影響だと分かりました)

健常者よりも努力も苦労させられた結果がこの有様では流石にひどすぎます。

幸不幸や運が人生のトータルでイコールに収束するのなら、これだけ苦労したんだから、きっとこの先の人生は良いことづくめだろう、とそんなふうに思っていた時期が自分にもありましたが、残念ながらその後の人生もほとんど苦悩しかありません。

気持ち的には今でも、障害者手帳でももらって毎年無条件に300万円ぐらい貰わないと割に合わないと思っています。

しかし、現実にそんなものはありません。

努力をした分、その苦労の見返りを無条件に期待してしまいますが、その期待が必ずしも報われるわけではありません。

そうなった場合、苦労と見返りの差分の量だけ絶望を抱くようになります。

はたまた「努力した分だけ自分にはその見返りを受取る権利がある」と存在しない権利を振りかざし、世間に放漫な態度を取ってしまいがちになるのです。

これらのように、努力をしたからといって必ずしも良い結果が得られるわけではないのです。

むしろ、自分の例のようにマイナスの結果を生むことも稀によくあるのです。

さらにもう一つ、努力をすれば結果がついてくるという因果律の認識も改めなければなりません。

努力をして結果を出す前に、結果が努力を引き出すのです。

どういうことかというと、先天的環境要因が努力の有無を決めるのです。

努力ができる素養があって初めて人は努力するようになります。

可能性の可能性で書いたように、人が何かをするにはその動機の前提となる経験、知識、環境が揃っている必要があります。

マインドセットが結果を生む前に結果がマインドセットを生み出すのです。

努力のベクトルは先天的環境要因に左右されます。

ガザの病院にいる人がフィギュアスケーターになって人々に夢と希望を与えたいとアイススケートの練習を始めることなどありえないように。

ですので、努力をして結果を出す前に、別の前提としての結果がすでに存在しているのです。

「努力も才能のうち」とはそういうことです。

先ほどに続けて自分ごとの話で例えます。

今の自分は水泳は嫌いになりましたがランニングは好きです。

ランニングを常にベストコンディションで日々欠かさず続けるために、適度な睡眠をとり、栄養バランスを考えて食事を取るようにしています。

その結果、今までは季節の変わり目ごとに体調を崩していたのですが、ランニングを習慣にしてからは、体調を大きく崩すことがなくなりました。

適度な睡眠と食事と運動を心がけた「努力」の結果として、日々の健康な体を手にしているわけです。

では、その努力の継続が何故できているのかというと、ひとえに才能と環境のおかげとしか言いようがありません。

ランニングを始めようとした「きっかけ」が偶然あり、そこから毎日走り続けられる時間的余裕が偶然、自分にはありました。

そしてなにより、走ることがあまり苦にならないメンタルと体をたまたま自分が持ち合わせていたおかげで、気付いたら半年間、ほぼ毎日走り続けていました。

その結果として、走ることが習慣化したのです。

月100km超のランニング習慣は客観的にみれば明らかな努力ですが、自分の中では努力ではなくただの習慣なのです。

みんなが「努力→結果」と思っているものは実は「結果→努力→結果」なのです。

努力の前に当人のマインドセットを含めた先天的環境要因が存在し、それが存在するから努力が発生するのです。

それがなければそもそも努力などしません。

それを考慮しないで無理やり努力したりさせようとすると、前段の負の側面が現れます。

努力そのものが大事なのではなく、自然と必要な努力を引き出せるような先天的な環境を用意するほうが大事なのです。

Tag: 哲学

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弱者救済とABC分析

物を売る商売をやっている人からすれば、ABC分析はわりとメジャーな考え方だと思います。

ABC分析を簡単に説明すると、よく売れるA群、そこそこのB群、あまり売れないC群と分別を行い、A群に重点的にコストを掛けて売上を伸ばそうという考え方です。

売れない物よりも売れる物にコストを割くほうが費用対効果が高いのです。

売上比率が「A:6、B:3、C:1」だとしたら、それぞれ3倍売れたとして、Aだと+12、Bだと+6、Cだと+2となるので、売れるものをより多く売ったほうが儲かるのです。

ゼルダの新作と四八(仮)の続編が同時発売したとしましょう。

四八(仮)をいくら頑張って宣伝しても売上はほとんど変わらないのは容易に想像できると思います。

もし買う人がいてもKOTY(クソゲーオブザイヤー)マニアぐらいで、その人達は宣伝のあるなしに関わらず買います。

逆に、ゼルダを宣伝すれば、発売日を知らなかったライトゲーマーを取り込める可能性があるので、売上の伸びに貢献しそうなのも容易に想像できると思います。

小売の店長目線で言えば、売れないC群で在庫ストックを圧迫しないようにしつつ、A群の商品の回転率を上げて売上を伸ばしていきたい、というところです。

ところで、現代社会では、人権意識の高まりと共にマイノリティーと子供への配慮、高齢化社会により老人への配慮が加速度的に増大しています。

これは経済生産性の観点からすれば、とても非効率です。

生産力のある人から各種税金や保険料を徴収して、生産性の低い人々に再分配することで、それらの人を支える構図になっているからです。

この現実をABC分析的に捉えると、本来のセオリーとは真逆の行動を取っていることになります。

売上(生産性)の主力であるA群を犠牲にして売上(生産性)が低いC群に労力を割いているからです。

先ほどの例で例えると「ゼルダなんてほっといても勝手に売れるんだから、ゼルダで稼いだ利益で四八(仮)を宣伝して四八(仮)をもっと売りさばこうぜ!」です。

で、実際にそれをやるとどうなるかは火を見るより明らかですよね。

ゼルダで稼いだ利益は無駄になるし、たくさん売りさばく予定だった四八(仮)はデッドストックとなり在庫を圧迫し、別の商品の陳列にも支障もきたします。

セオリー通りにゼルダを猛プッシュして売れば、在庫は捌けるし売上も伸びることでしょう。

このように、主力商品である現役世代の労力をスポイルして、非労働世代のケアに当てることはABC分析的にはアンチパターンとなるのです。

そして、現にその構造に無理がでてきているので各先進国の社会は停滞しています。

商売のセオリー通りに社会を運営するなら、ABC分析に習って、現役世代にまずは力を入れて、それ以外のBとCは後回しでいいのです。

BやCに力を入れて手にできる利益よりAに注力して手にできる利益のほうが多いのですから、まずは利益を確保してからBとCの場所を確保すればいいのです。

もし、この世に存在するゲームがすべてクソゲーであれば、すぐにユーザーにそっぽ向かれてゲーム産業はすぐに崩壊するでしょう。

しかし、マイクラのような神ゲーが一つ存在するだけでゲーム産業に対する期待値はかなり高くなります。

面白いゲームがあるから「他に面白いのはないのかな?」となるし、やるゲームやるゲーム全てつまらなかったら、ゲームなんてさっさと放り投げて別のエンタメを求めるようになるだけです。

クソゲーの中からキラーコンテンツが生まれてくるのではなく、キラーコンテンツが存在するからクソゲーも存在できるのです。

ファミコンが馬鹿売れしたから無限にゲームソフトが開発されたし、GREEやDeNAがソシャゲをヒットさせたから無限にガチャゲーが爆誕したのです。

常にAという主力商品が先で、BやCはその後に雨後の筍のように生えてくるだけであって、Cをいくら頑張ろうとも、その先にAが芽生えてくることはないのです。

誰も聞いたこともない鳴かず飛ばずのソシャゲタイトルにいくら開発資金を注ぎ込んだとしても、モンストやパズドラを超えるようなキラーコンテンツに化ける日は永遠にこないでしょう。

マイノリティーを積極的に救済するよりも、マジョリティーをブーストすることにより、その余剰を分けてもらったほうが長期的にはマイノリティーにも優しい世界になるのです。

そう、スクエニがドラクエやFFのビッグIPで安定して稼げるからこそ、ブレイブリーデフォルトやオクトパストラベラーなどの新規IPに挑戦できるのです。

そして、ビッグIPを育てず果敢に新規IPに挑戦し続けたWARP(Dの食卓などスマッシュヒット作を複数制作していた会社、最後の方は300万本売れるRPGを開発しようとしていた)は今はもうありません。

Tag: 社会

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コミュハラ

コミュニケーションはみんなが欲するものであると同時にめんどくさいものでもある。

好きな人となら無限に話したくても、嫌いな人だったら一秒たりとも話したくない。

人間とはそういうものである。

一口にコミュニケーションといっても、楽しいものもあれば、ただひたすら苦しいだけのものもある。

みんなが欲しない方のコミュニケーションにはどのようなパターンがあるのか?

まずは先ほど例を上げた、相手が嫌いだった場合だ。

「食事」そのものは生きる上では絶対善だが、「食事」には美味しいものと不味いものがある。

自分には絶対に必要なんだけど、ものによっては受け付けない場合がある。

コミュニケーションもそれと同じである。

絶対に必要なものでも「嫌い」であれば拒絶してしまう。

嫌いに近しく、相手に興味がない場合も楽しいコミュニケーションは成立しない。

愛の反対は無関心と言われるように、関心がないものには愛情もわかない。

鉄道マニアがいくら鉄道について熱く語っても、聞き手側に興味がなければ、ただひたすらつまらない時間が過ぎるだけである。

ただ、嫌いなのはともかく、無関心を拒絶し続けると自分自身のフックが少ないままとなるので、自分の方が無関心の対象になってしまう危険がある。

もう一つのみんなが欲しないコミュニケーションは、ムダに高い思考コストを求められる場合だ。

面接の受け答えや上司への回答がダルいのはこのためだ。

面接で質問する側は用意した質問を投げかければいいだけだが、答える方はシチュエーションにあった最善であろう答えを捻り出さなければならない。

はたまた、上司が「進捗どう?」とだけ言ってきても、部下はかなり具体的な回答をしなければならない。

これが「まぁまぁっスね」で済むならなにもダルいことはない。

質問を投げかける側は往々にして無意識だが、回答する側の回答コストを安く見積もりすぎているきらいがある。

質問する側は軽い気持ちで聞いたとしても、回答する側はそれなりに具体的な回答をしないと回答にならないので、双方のコミュニケーションで思考コストの乖離が発生する。

質問する側も回答する側も思考コストが同じだと思い込んでいるとコミュニケーションを重ねるごとに軋轢が生まれることになる。

人と人の仲が悪くなる原因はだいたいこれで、「私と仕事、どっちが大事なの?」みたいな発言は百害あって一利なしである。

「なんでこうなってるの?」と聞く方は簡単だが、「こうなってる理由」がとても複雑な事情でそうなっているなら、回答側はその複雑なことをわざわざ言語化して回答しないといけない。

「大人の事情でそうなってます」と回答できれば楽だろうが、それが許されることはほぼないだろう。

上記の話を逆説的に捉えると、回答側の思考コストをできる限り質問側で吸収できる人がコミュニケーション能力が高い人であることがわかる。

じつは語彙力が低いほどコミュニケーションが円滑になる。

パリピはアゲアゲで仲良くなる一方、陰キャは同担拒否で仲違いを起こす。

そして、心理的安全性においても「なんでも発言しやすい」なんかより「相手の言動に反応しやすい」環境の方がよほど大事である。

質問しやすい環境であっても、質問に答える側の負荷が高まってくれば、徐々に「めんどくさいこと言うなよ?」となって、発言しやすい空気感は失われてしまう。

レスポンスの思考コストを考慮することはコミュニケーションにおいてとても重要である。

答えにくい質問をする人は嫌われ、答えやすい質問をする人は好かれる。

なぜなら、人間は基本的に反応だけでやり過ごしたくて、思考などというめんどくさいことはしたくないからだ。

反応に抗うにはそれなりの意思力とエネルギーが必要だ。

あなたが普段からTikTokをみているのならば「TikTokで面白かった動画教えて!」の質問には息を吐くように回答できるだろう。

しかし「なんでスマホでTikTokが見れるの?」と聞かれても「知らんがな」と適当に受け流してしまうだろう。

Tag: コミュニケーション

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