アウフヘーベン

今まで自分の書いてきた文章を読み返しているとヘーゲルの弁証法的な考え方が多々あると、ふと気づきました。

そこで今回は今までのエントリを振り返って、自分の過去の思考を辿ってみたいと思います。

ヘーゲルの弁証法的な考え方というのは簡単にいうと、命題(当たり前・常識・前提条件)を否定することで自分なりの考えを捏ねくりだすことです。

このときの命題をテーゼ、否定をアンチテーゼ、自分なりの考えがジンテーゼ、捏ねくりだす行為をアウフヘーベンと呼んだりするそうです。

それでは過去の自分がどのようにアウフヘーベンしてきたのか振り返ってみましょう。

このエントリでは頑張ることよりも普通にいることのほうがなぜ素晴らしいかの説明をしています。

「頑張ることがすごい」という当たり前を否定し、アウフヘーベンした結果、ニュートラルである「普通」のほうがすごいというジンテーゼを導き出しました。

このエントリでは0から1を生み出す価値を否定するまではいかないまでも、1を生み出した先のほうが大変だぞ、といった内容になっています。

0→1の仕事の尊さに少し疑問を投げかけ(アンチテーゼ)、1→1の仕事の価値を見出す(ジンテーゼ)ためにアウフヘーベンしました。

このエントリでは「プログラマー=理系」という常識を否定し「プログラマー=文系」という新しい見方(ジンテーゼ)を提示しています。

文系・理系という枠組み自体に疑問を呈することでアウフヘーベンしています。

数式やコードは文章をロジカルに表現し直しただけ→ということはコードは文章を継承したものに過ぎない→じゃあ文系じゃん、といった流れです。

タイトル通り頑張りを褒めることを否定する内容のエントリです。

褒めるべきは結果であって、頑張りを褒めても頑張りが再生産されるだけです。

結果を生みたいなら結果を褒めましょう。

そもそも「頑張りを褒める」がテーゼになっているのが解せません。

個性の存在自体を否定してしまう思い切ったエントリです。

パーソナリティーを否定することで環境要因の重大さ(ジンテーゼ)を提示する内容になっています。

『ケーキの切れない非行少年たち』を読んでもらうと非行の原因が少年自身にあるのではなく、少年を育ててきた環境に問題があったことが分かりやすく書いてあります。

意味がないことを否定して意味があることにしています。

もはや意味不明ですね。

中の内容はちゃんとアウフヘーベンしているので意味がない意味は意味があります。

このエントリでは自己啓発本によくある「まずは与えよ」を否定しています。

与えることが出来る人は与えるものをすでに持っている人だけ(ジンテーゼ)です。

誰も彼もが与えるものを所持している恵まれた人生だと思うなよ、あまり調子に乗んなよクソが、といった内容になっています。

タイトル通り語彙力を否定しています。

ゆるふわコミュニケーション最強じゃね?(ジンテーゼ)といった内容です。

マクドナルドにいるJKの話を聞いてると10秒に一回「ヤバくね?」って聞こえてきますが別にそんなに「ヤバくなくね?」

とてもわかり易いアンチテーゼの掲げ方ですね。

教育が教えることじゃなかったら一体何なんだ?というお話ですが中身を読んでいただけたら納得してくれると思います。

ネタばらしをすると、みんなが思っている教育は「教えを与える」で、ただの教与であり「教えを育む」のが本当の教育で、教えること自体は教育とは言わないといった内容のジンテーゼとなっています。

ブラック企業は会社がブラックなのではなく(アンチテーゼ)そこに所属する従業員こそがブラックである(ジンテーゼ)といった内容です。

自分が絶対定時で帰るマンだからこそ起こせたアウフヘーベンです。

これもわかりやすいアンチテーゼの掲げ方ですね。

疲弊している人を励ますのがやさしさじゃないか、というテーゼを逆手に取っています。

「やさしさ」を「気遣い」に置き換えると自分が示したかったジンテーゼが見えてきます。

そのやさしさが、そもそも不要になること自体がほんとのやさしさです。

この一文が当エントリのジンテーゼを現していますが、改めて読んでみて自分でいいこと書いたなぁと感心してしまいます。

就活や転職活動によくある仕事に対する興味を主体とした選考基準にドロップキックをかました感じです。(everybody goes)

これも「仕事は楽しい」がテーゼになっているのが解せなかったのが書く動機になっています。

あまりにも解せないので「仕事は楽しむもの」の負の側面をもう一つ別のエントリで書いています。

だから本当は「仕事は楽しいもの」ではなく「つまらない仕事にこそ価値がある」と思わせたほうが世界に対しては優しいのだ。

この一文が当エントリのジンテーゼとなっています。

最後は何故か親鸞を絶賛していますが日本で一番早くマインドフルネスを生み出したのは多分彼です。

一般論的には大きなタスクは細かく分解しましょうというテーゼがあると思います(主にアジャイルで)。

そこにアンチテーゼを投げかけたのがこのエントリです。

内容的には若干『人月の神話』と被るのですが、タスクを分解するほどタスク化からこぼれ落ちた管理観測できない作業が増えていって目に見えないコストも膨れ上がるよ、といった内容になっています。

タスク分解で発生するデメリットの存在を提示するだけのささやかなジンテーゼとなっています。

タイトルだけだと分からないですが、本に書いてある内容を否定して別の因果を提示しているエントリとなります。

本の内容では天才を殺す凶器は凡人の「無理解」による排斥としていますが、自分は「無関心」こそが天才を殺していると考えています。

無理解よりさらに前段階の無関心をジンテーゼとして、その残酷さを説明しています。

プログラマーはアルゴリズムを考える人という一般認識を逆手に取ったエントリとなっています。

ジンテーゼとしてアルゴリズムを知識として持っていることとアルゴリズムを組み上げることは別として後者の大切さを説いています。

このエントリではデータサイエンティストをディスっ…いや失礼、噛みまみた。

データサイエンスという概念に疑問を投げかけて、彼らは科学者ではなく芸術家だよというジンテーゼを提示したエントリとなります。

別に知り合いのデータサイエンティストが胡散臭いとかは1ミリも思っていませんし、データサイエンティスト自体が賤業だともブルシットジョブだともつゆほども思っていません、ええ。

我々が消費しているのは世に溢れる大量のコンテンツではなく、その結果生み出されたコンテキスト(文脈)であるとしたエントリです。

情報過多(コンテンツ消費)社会(テーゼ)を否定してコンテキスト消費という概念(ジンテーゼ)を提唱しています。

コンテンツの味はコンテキストでいかようにも味変できるのでコンテキスト側にコンテンツ消費の本質が存在する、といった内容になっています。

コンテンツの味を吟味することなくコンテキストの味で食事を済ませてしまうことが「わかったつもり」です。

ここの例えが当エントリの核となっています。

自分で書いておきながらいいこと書いてあるなぁ、と思います。(2回目)

このエントリで“anti-liberal”というPath名をつけたときに今回の内容を書こうと閃きました。

他にもいくつか“anti~“で始まるエントリが存在することを思い出し、既存の概念を疑うことで色々と新しい考えを生み出している自分に気づきました。

そしてこの思考様式はどこかで見たことがあるぞ、と思って思い出したのがヘーゲルの弁証法でした。

そして前回書いたこのエントリですが、ウォーリーをさがせ(テーゼ)からのウォーリーをさがすな(アンチテーゼ)を掲げて、リベラルの弊害(ジンテーゼ)について書きました。

ちなみに本の題名が「ウォーリーを探してもいいですよ」だったらエントリに書いてある問題は起きなかったと思います。(タイトルがまどろっこしいのには目つむらないといけないけど)


今までに書いてきたエントリの中で弁証法的に考えてきた内容のものを振り返ってきましたが、そこそこ高頻度で自分はこの思考メソッドを利用していたんだなと、気づくことができました。

みなさんも弁証法的思考を利用していろいろ考えてみてはいかがでしょうか。

レッツアウフヘーベン!

Tag: 哲学

ウォーリーをさがすな


件の記事を「『ウォーリーをさがせ』の例えが現代の行き過ぎたリベラル思想の弊害を端的に現しているなぁ」と別の考えを思い浮かべながら妙に納得して読んでいました。

そこで今回は自分の頭の中でわいてきたリベラルの弊害について書いてみます。

まずはじめに、リベラルの世間一般的な認識を列挙してみましょう。

「自由主義者」であること。

多様性に対して寛容であること。

何かしらの差別による不平等の解消(LGBTやBLM)にまつわる活動。

などが挙げられると思います。

リベラルの対義語とされる「保守」は上記とは逆で、過去からの慣習に従い画一的であり規律による区別を容認するといったイメージでしょうか。

現代の人権を大切にするイデオロギー下だと保守よりもリベラルが支持されやすく、現実に社会はそのように変わってきました。

リベラルには大きく2つの側面があります。

一つは過去の慣習からの解放で、もう一つは権利の主張です。

前者は校則で茶髪を認めるようにしたり、ハンコ文化をなくさせようとする取り組みです。

後者はLGBTの法的婚姻を認めることであったり、国会議員の女性比率を上げようとする取り組みです。

ここで英語のliberalの定義を見てみましょう。

willing to understand and respect other people’s behaviour, opinions, etc., especially when they are different from your own; believing people should be able to choose how they behave

wanting or allowing a lot of political and economic freedom and supporting steady social, political or religious change

他の人間の行動や意見に対する理解と尊重を持つ。

その違いを認め互いの選択を尊重する。

経済による自由さを認め、それに伴う政治や宗教の変化を社会的に容認する。

といった意味になります。

ちなみにliberalの語源のfreeじゃない方の自由、libertyの定義

freedom to live as you choose without too many limits from government or authority

です。

こちらはみんなの思い浮かべる「自由」という意味に近いと思います。

リベラルは「自由」と捉えるより「容認」と捉えたほうが合点がいきます。

要するにリベラルは自分の自由さを守る思想ではなく他人の自由を「容認」する思想なのです。

自分個人が他人を容認するだけに留まっていたのであればリベラルはとても素晴らしい思想だったでしょう。

しかし、他者の自由の容認を「強制」しようとするのは、それは自由ではなく束縛です。

「それだとリベラルは自由主義とは言えないじゃないか」となって、それとは別の自由主義としてリバタリアニズムが存在していたりもするのですが、ここではその話はしません。

リベラルは自由の追求ではなく自分とは違う他人の容認であり、その容認を積極的に社会に浸透させようとする活動であることが分かりました。

LGBTを広めている人はレズやゲイの人よりヘテロの人のほうが多いし、BLMの活動家は黒人以外の人のほうが多いし、女性参画社会について議論しているのはほとんど男です。

何故か当事者ではなくその周りの人たちが火に油を注ぐがごとく他人の自由の容認を「強制」しようとしているのです。

さて、ここで話をウォーリーをさがせに戻しましょう。

『ウォーリーをさがせ』は読んで字のごとくウォーリーを探す絵本です。

ウォーリーを探すことに価値がある絵本です。

ここにある一人の変わり者が現れます。(※ここから先のこのお話はフィクションです)

「僕はウォーリーを探したくない。ウォーリーを探すことを強制される筋合いはない。僕は人の密集具合や絵全体の乱雑さを眺めるのが好き」

確かにその通りです。

別に『ウォーリーをさがせ』をウォーリーを探さずに読む自由は誰にでもあります。

そして、その意見を聞いた意識の高いリベラルの人がこのような意見を持つわけです。

「そうだ!!我々は『ウォーリーをさがせ』でウォーリーを探す必要なんてなかったんだ!みんなウォーリーを探すのをやめてみよう!この子みたいに新しい楽しみ方が生まれるぞ!」

となってみんなに啓蒙しだします。

その子だけが勝手に自分の楽しみ方を見つけて楽しむ分にはなんの問題もありません。

しかし、先程の啓蒙が発展していって「もうウォーリーを探す時代は終わったんだ。ウォーリーを探さずに別の楽しみ方をするべきだ」といった先鋭的な思想に変化していきます。

それを真に受けた普通の人々は『ウォーリーをさがせ』からウォーリーを探すことをやめてしまいます。

しかし、ほとんどの人間にとってウォーリーを探す必要のない『ウォーリーをさがせ』はただのつまらない絵本にしかなりません。

そして人々はしだいに『ウォーリーをさがせ』自体を読まなくなるでしょう。

リベラルの人が良かれと思って啓蒙した結果、ただ『ウォーリーをさがせ』の価値だけが毀損してしまったのです。

絵本は誰にも読まれなくなるし、今まで楽しくウォーリーを探していた人の楽しみも奪われました。

自由を啓蒙していたはずなのに、何も新しい価値は生み出せずに一つのエンターテインメントの価値を台無しにしてしまったのです。

なぜそうなってしまったかというと、リベラルは自由を啓蒙する思想ではなく、容認という束縛を強制する思想だったからです。

保守には保守のちゃんとした存在理由があるのです。

ウォーリーを探さない自由は認めるべきですが、ウォーリーを探す「過去からの慣習」も同時に守る必要があるのです。

Tag: 哲学

編集と真贋

情報は自分自身が直接体験する以外だと、他人による編集を介したものしか受け取ることができない。

編集とは全体から一部を切り取ることであり、かつ、加工することである。

人間は森羅万象をすべて把握することも表現することもできないし、人から人に伝える時点で何かしらは抜け落ち変質する。

人を経由すると、ただそれだけで「編集」された情報となる。

よって我々がメディアを通して受け取る情報はすべて「編集」されたものになる。

そして、「編集」フィルターで情報を濾過すると物事は捉えやすくなる分、情報の鮮度、質、正確性は落ちる。

以前言及したデータサイエンティストは情報の編集者とも言える。

対象のエントリで述べたように、利用する情報の取捨選択と加工のさじ加減でいかようにも表現を演出することができる。

先月の割合が30%で今月の割合が50%になっている事実を提示して「先月より増えている」と言われれば「ああ、たしかに」と勢いで頷いてしまうかもしれない。

しかし割合ではなく実数値だと先月が60で今月も60であり、全体の中の割合が変わっただけの可能性もある。

実際には変動していないのに提示する情報を操作すれば「増えている」という印象を植え付けることができてしまう。

全体の中の一部分だけであっても、それがそのまま事実として伝えられているならまだマシなほうだ。

子供の頃にした伝言ゲームを思い出してみてほしい。

最初に決めた文章から人を仲介すればするほど、どんどん元の文章から内容が変わっていってしまう。

最後の人の文章と元の文章が全然別物になっていて「ぜんぜん違うやん」などといって盛り上がっていたと思う。(優秀なチームは一字一句違わず正確に伝えきっていたけど)

人を経由すると意図をしていなくても情報の精度は落ちてしまう。

さらに意図を持った編集を経由した情報は往々にして形が歪められ、素材となる情報とは違った解釈を生むようになる。

むしろ編集を利用して自分に都合のいいような解釈を意図的に付加しようとする。

先日「ソニー、プレイステーション5予約の事前登録を開始。徳の高い順に招待、米国内のみ」というタイトルの記事がバズった。

ソニー公式のFAQを読むと「PS5予約の事前登録を開始」と「米国内のみ」はちゃんとその通りの文章が書いてある。

しかし「徳の高い順に招待」とは書いていない。

実際に書いてある文章は

Our selection is based on previous interests and PlayStation activities.

で、この文章を拡大解釈して「徳の高い順に招待」と言い切っている。

公式文章から読み取れるのは「招待する人はPSユーザーの過去の行動と関心をもとに判断する」までだ。

記事内の文章には

過去に実在のプレーヤーとして登録や購入などの行動が確認できたかでフィルターする趣旨と思われます。要するにPSに功徳を積んできたかどうか。

と書いてあり、過去に実際に購入したかどうかでフィルタリングするんじゃないか、という真っ当な予測をちゃんとしている。

しかしそれがなぜ「功徳を積んできたかどうか」に飛躍するのか。

タイトルを見ただけの人は「これまでのソニーに対する課金額が多い人からPS5予約できるのか」や「徳の高い順とはなんぞや?」といった好奇の目を持つことになる。

人からの関心を引くためにあえて「徳」という単語を使い、公式が全く言っていない「徳の高い順に招待」とまで言い切ってしまうと、もはや編集を通り越して虚偽だ。

編集された情報は意図の有無に関わらず、その情報だけを元に事実がそうであると早合点してはいけない。

自分
↑←─[編集(個人ごとの解釈)]
タイトル
↑←─[編集]
内容(2次情報)
↑←─[編集]
出典元(1次情報)
↑←─[編集]
現実

情報は実際の現実から自分に届くまでにこれだけ編集の洗礼を受けることになる。

真実に迫るためにはタイトルだけでなく内容をよく読まなければいけないし、出典(ソース)を当たらなければいけないし、最終的には自分自身の手で確認しなければいけない。

間に編集が挟まれるたびにコンテキストが消費され伝言ゲームのごとく情報が歪んでいってしまう。

自分が受け取る時点の情報は真贋すら危ういと認識しておく必要がある。

Tag: コミュニケーション

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