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プロジェクトは芸術でありそれゆえ爆発する

仕事におけるプロジェクトの推進やシステム開発など、そういった組織だった営みは合理的かつ論理的に行われていると、ほとんどの人は漠然と考えているように思う。

仕事にまつわる大体の概念やモノはすでに規格化されており、マネジメントや方法論も学問として体系化され、書籍化され、教育もされている。

そこまで整っているのだから、それらの知識体系を適切に組み合わせて実践すれば、基本的にプロジェクトは失敗しないように思われる。

よほどの料理音痴でもない限りレシピ通りに料理を作れば、その料理が出来上がるのと同じように。

しかし、現実はどうだろうか?

どれだけ優れたエンジニアを揃えても、どれだけ高学歴の人材が存在したとしても、どれだけ綿密に計画を立てても、プロジェクトは炎上する時は炎上する。

納期は遅れ、予算は超過し、品質は妥協され、時には完全に頓挫する。

どちらかといえば、うまくいかない方が日常茶飯事なのはなぜだろうか?

学問や科学を土台にし、常日頃から「科学的根拠」を礼賛しているのだから、成功が当たり前になっていないことが逆におかしくないだろうか。

もし本当に仕事におけるプロジェクトの遂行が、科学や学問をベースにしているのなら、もっと成功率が高くてもいいものである。

化学が前提なら、基本的に同じ条件で実験すれば同じ結果が得られるはずだ。

しかし、現実では同じ要件であっても、対応する組織によってまったく異なるアウトプットが生まれる。

あるプロジェクトは順調に進み、別のプロジェクトは泥沼化する。

なぜそうなるのか?

答えは単純だ。

私たちが学問だと思い込んでいるものの多くは、実は芸術だからである。

音階の概念は学問だが、それらを組み合わせて生み出される楽曲は芸術だ。

色相は科学だが、それらを組み合わせて生み出される絵画は芸術だ。

だから、昔私がビジネスパーソンでしかないデータサイエンティストをデータアーティストと称したのはそのためだ。

我々は学問と芸術(「知識」と「教え」)の違いをあまり意識していない。

システム開発を例にすると、まず、その土台となるコンピューターサイエンスは確かに学問だ。

計算量理論、形式言語、暗号理論、これらは厳密な数学的基盤の上に成り立っており、再現可能で検証可能な知識体系だ。

しかし、サービスの開発や運用は違う。

それは圧倒的に芸術に近い。

楽天やAmazon、ネット証券や銀行のインフラは学問でも科学でもない。

これはサグラダファミリアと同じく、実体を伴う世に具現化した精巧なアート作品なのだ。

あまりにも日常に溶け込みすぎているため、それをアートだと認識していないだけだ。

あらゆるシステムにおいて、どの技術スタックを選ぶか、どんなアーキテクチャを採用するか、どこまで品質にこだわるか、いつリリースするか、これらの判断に正解はない。

厳密に言えば正解は存在するが、正解が存在するのは正解したその瞬間のみである。

正解に至る道筋には、状況に応じた感覚的な判断、経験に基づく直感、チームの価値観やセンスが深く関与している。

前回書いたように、そもそもプログラミングもロジックではなくアートだ。

デザインは日本語で表現すると「設計」だが、もとは「意匠」という意味も含んでいる。

つまり、プログラミングとは工学であると同時に意匠なのだ。

デザインパターンの選定、変数の命名、関数の分割、抽象化のレベル、これらすべてに作り手の経験からくるセンスと美意識が表れる。

そして、センスや美意識に絶対的な正解はない。

前回言及したレビューでのやりとりは学問的な議論ではなく、芸術的価値観の衝突、いわゆる音楽性の違いが表出しているだけなのだ。

こういったことは仕事全般についても言える。

学問や科学は道具としては使うが、最終的な成果は人々の芸術的センスに委ねられている。

企画書を書くこと、プレゼンテーションをすること、顧客と交渉すること、売り上げを上げること、これらで成果を出すことはマニュアル化できない芸術的営みだ。

営業トークのテンプレートを完璧に暗記しても売れない人がいる一方で、型破りなやり方で次々と契約を取る人もいる。

それは、その人が持つ独自の感性や人心を掌握する魅力やカリスマ性、つまり芸術的才能の差なのである。

学問と芸術の決定的な違いは、結果の予測可能性にある。

学問は普遍的な正解を追求する世界である。

しかし芸術の世界では、どんなに理屈や筋が通っていたとしても普遍的な正解など存在しない。

ピカソのキュビズムのように、一見現実を歪めたような表現が逆に評価を得たりする。

実際に世に出して、世間の反応を見るまで、その価値は確定しない。

仕事もまったく同じだ。

どれだけ綿密に市場調査をしても、どれだけ優れた技術を投入しても、実際にリリースして顧客の反応を見るまで、成功するかどうかは分からない。

試験問題であれば事前に正解は存在するが、芸術には正解はおろか模範解答もない。(芸術ではなく美術であれば別だが)

プロジェクトが爆発する理由は、まさにここにある。

私たちはプロジェクトを科学的なアプローチで管理しようとする。

ガントチャート、KPI、進捗率、これらの指標で計画を立て、進捗を測定し、問題を早期発見しようとする。

しかし、プロジェクトの本質が芸術である以上、こうした科学的管理手法には限界がある。

芸術作品の制作過程を数値で管理できないように、プロジェクトもまた数値だけでは捉えきれない。

チームの雰囲気、メンバー間の信頼関係、モチベーションの高低、時代の潮流、これらの目に見えない要素が、プロジェクトの成否を大きく左右する。

そして、人間関係や認識の統一に数学的な正解などない。

それは芸術的なセンスとタイミング、人との相性、時には運によって成立する。

だから、芸術と同じくプロジェクトも爆発する。

そして、芸術である以上、完璧なコントロールなど不可能なのだ。

学問は不確実性から確実性を抽出する営みであるのに対し、芸術は確実性ではなく人の感情を抽出する営みなのだから。

Tag: 仕事

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レビューと心理的安全性

コードレビューや仕事のフィードバックをする際によく聞くフレーズがあります。

「コードと人格は別だから」「コードを批判してるだけで、あなたを批判してるわけじゃない」などです。

でも、本当にコードや仕事の成果物と人格は別物なのでしょうか?

プロ野球の珍プレー好プレーはある種の仕事の成果物ですが、プレーとその人の人格はある程度一緒くたに扱われます。

ホームラン王を取れば本人もファンも嬉しいし、エラーをすれば本人も凹みますしファンからも叱咤されます。

それを「プレーと人格は別だから」とは誰も言いません。

野球の話はさておき、コードを書くという行為は、その人の思考プロセス、価値観、時には美意識すら反映される創造活動です。

私はそもそもプログラミングはロジックではなくアートだと思っています。

デザインパターンのデザインは日本語で表現すると設計なのですから。

どのアルゴリズムを選び、どういう変数名をつけ、どんな構造で組み立てるか━━これらの判断には、その人のアイデンティティが深く刻み込まれています。

「このコードは違う」と言われることは、「あなたの思考プロセスはダメだ」と言われているのと同じです。

Git(Github)が開発のスタンダードとなった今、プルリクエストを元にレビューを行うのは、もはや当たり前の慣習になっています。(自分から進んで有識者にレビューを求める行為はこのエントリで言及するレビューとは別物と考えてください)

レビューを受ける方もする方も、レビューそのものを懐疑的に捉える人はあまりいないと思います。

しかし、実際にはレビューをすればするほど、それに比例して個人のアイデンティティが蝕まれている現実があるのです。

レビューによるコード改善のメリットと、レビューを受ける人間のメンタルに与えるダメージ、この両者を天秤にかけた時、果たしてメリットの方が本当に大きいのでしょうか?

まず、レビューを行ったからといってコードが良い方向に改善されるという保証はありません。

むしろレビュワーの能力不足により、より悪くなったり、レビュー対象だけで評価すればそれで良いものでも、システム全体で見れば不適切であったり、その後のシステムの歴史の紡ぎ方によってはレガシーになってしまったりします。

逆に、レビューによる指摘は、人の気分を下げることはあっても、人の気分を上げることはありません。(良いコードは褒めようみたいな文化もあるらしいですが自分は見たことがありません)

返却されたテストの答案用紙のバツが人を気持ち良くすることがないのと同じように。

さらに、よりスマートに記述できるのを知りながらあえて冗長に記述するケースも状況によってはあり得ると思いますが、そういった場合に、レビュアーから冗長さを突っ込まれた時、その説明に心理的体力を奪われたりもします。(わざわざnitsを書いて相手の気分を害するぐらいならそもそも書かない方がマシだと思います)

最近、AIレビューも体験していますが、評価基準のコンテキストがコードにしかなく、コードにしかない上にさらにその一部しかないので、指摘内容と現実に存在する全てのコンテキストを考慮してレビューの内容を吟味する必要が発生し、それはそれで心労が発生します。

能力とやる気を天秤にかけた時に大事なのはやる気の方です。(もちろん仕事をこなすための最低限の能力は必要ですが)

能力については、AIの進化により人の能力に対する依存度は減っています。

かたや、やる気については能力に比べればどうでもいいだろ、と考える人もいるかもしれません。

しかし、できるよりやる方が大事だし、やる気の減衰は仕事のクオリティに影響します。

ちょっとした気持ちの入らなさの塵積がハインリッヒの法則の土台の土台を築き上げるのです。

そして個人のクオリティの減衰はコミュニケーション不全として別のメンバーのクオリティの減衰にも繋がっていきます。

出来の悪い仕事は他人の仕事を増やすのです。

以上のことから私は、むしろデメリットの方が深刻だと感じています。

そしてコードに限らず、あらゆる仕事のアウトプットには作り手のアイデンティティが宿っています。

企画書、デザイン、文章、プレゼン資料━━これらすべてが、その人の知識、経験、感性の結晶なのです。

そうであるならば、何かしらに対する意見の存在は、必然的に誰かしらのアイデンティティを脅かす結果に繋がるのです。

心理的安全性という概念がありますが、この現実を踏まえると、真の心理的安全性など存在しないのです。

誰に対しても忖度なく意見を表明できる状況は、みんなが自分のアイデンティティを否定する可能性を内包しているのです。

心理的安全性はそういった二律背反や矛盾を孕んでいます。

以前述べたように、言語化能力が高くなればなるほど、違いが明確になり、対立が生まれやすくなる現実があります。

細かい指摘をすればするほど、受け手との思想や価値観の違いが顕になり、コードとの心理的距離は縮みますが、その分人間の心は離れていきます。

レビューはみんなが思っているほど生産性があるわけではないし、心理的安全性もその実態は絵に描いた餅なのです。

何が言いたかったのかというと、脳死のレビューはピープルウェア(システムではなく人)にバグを潜ませるし、仕事において心理的な安全など存在せず、心理的な安全が欲しいのであれば組織などに属さず全ての仕事を自分一人でやり切るしかないのです。

Tags: プログラミング, 仕事

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知性の源泉

我々が知性を感じるとき、その知性の源泉は知識量から生じているのだろうか?

多くの人が知性と聞けば、まず思い浮かべるのは知識の量や論理的思考力といったものではないだろうか。

確かに、テストの点数が高い人や、難解な本を読み込んでいる人、複雑な数式を操る人などを見ると「賢い人なんだろうな」と感じる。

しかし、人々が知性を感じるのは相手の持っている知識量や論理性ではなく、もっと別の何かなような気がする。

例えば、栄養学について詳しく知っていて、偏った食事の害悪について語ることができるのに、自分自身は日々ファストフードばかり食べて不健康な体型をしている人がいるとする。

一方で、特に栄養学的な知識はないが、何となく体に良さそうなものを選んで食べ、自然と健康的な体型を維持している人がいるとする。

どちらがより知性的だと言えるだろうか?

知識偏重の価値観で見れば、前者の方が知性的に映るかもしれない。

しかし、現実世界での適応という観点で見れば、後者の方がはるかに知性的な振る舞いをしているのではないだろうか。

これが、知識から生まれる知性と、身体性や本能から生まれる知性の違いだ。

レヴィ=ストロースが『野生の思考』で述べた概念にも通じるが、人間の知性は論理や知識だけから生まれるのではない。

長い進化(もしくは人生)の過程で培われた身体的な感覚や直感、本能的な反応もまた、知性の重要な源泉なのだ。

知識から生まれる知性は確かに優秀だが、往々にして抽象的なレベルに留まってしまう。

頭では分かっているのに行動が伴わない、理論は完璧なのに実践で失敗する、といった現象はその典型例だ。

対照的に、身体性や本能から生まれる知性は、現実世界との直接的な相互作用の中で磨かれる。

そのため、具体的で実践的な場面において、しばしば知識偏重の知性を上回る成果を生み出す。

ここで一つ、知識よりも身体性が大事だと思わされる出来事が最近あったので紹介したい。

自分はラフロイグというウィスキーが好きでバーに飲みに行った時は、年代物やボトラーズのラフロイグをよく飲む。

ある日、ラフロイグの25年を飲んでいると、おもむろにマスターが別の瓶のラフロイグ25年を棚の奥から引っ張り出してきて「こちらも飲んでみてください」とお勧めされた。

そして、お勧めされた方のラフロイグを飲んで(いや香りの時点で)あまりのクオリティの違いに青天に霹靂が走った。

同じ「ラフロイグ25年」という定番商品にも関わらず、美味しさの次元が違ったのだ。

同じパッケージの商品なのに中身の品質にこれほどの差分が発生することにものすごく衝撃を受けた。

自分が今まで持っていた単純なウイスキーの知識では、熟年期間の長さに比例して味も良くなる、ぐらいしかなかった(し、大抵はそう)。

しかし、同じ熟成年数であるのにも関わらず、もはや別の飲み物レベルで味が変わるという実経験を経ると、知識だけではなく、いかに自分が実際に体験することが大事なのかが分かる。

仮想や抽象レベルの話であれば知識の方が有用に思えるが、こと現実においては身体知は知識を凌駕する。

スポーツ選手が理論を学ばずとも卓越した技術を身につけたり、料理人が厳密なレシピなしに絶妙な味付けをしたりするのも、こうした身体知の現れと言える。

料理研究家のリュウジ氏は料理に関する知識をたくさん持っているからすごいのではない。

彼自らの感性と才能により、誰でも真似できる料理のレシピや、人気メニューの解析レシピを次々と生み出し続けているからすごいのだ。

もちろん、知識は知識でとても大事なものだ。

ただ、我々は知識だけが知性の全てだと思い込みがちである。

現代社会では、テストの点数や資格の数、学歴などが知性の指標として重宝される。

しかし、そうした評価軸だけに囚われていては、人間が本来持っている豊かな知性の可能性を見落としてしまう。

もし真の知性とやらが存在するのならば、それは知識と身体性、論理と直感、抽象と具体のバランスの中にこそ宿っている。

知識を持ち、経験をし、分別を得ることで初めて躰から知性が滲み出るのである。

そして、そのジャンルのトップオブトップというか「全人類でこの人が一番スゴい」みたいな人との邂逅が、人の人生を大きく作用する、と個人的に思っているが、その現象も知識だけではなく、その人間から発する全てを自分の六処全てで吸収した影響が多大に関与するためなのかもしれない。

Tag: 哲学

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