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有知蒙昧

タイトルだけだと内容が分かりづらいので、最初に書いておくと、今回は多様性とエコーチェンバーのお話です。

今でこそ多様性という言葉は割と日常的に使われていますが、一昔前まではそんな言葉はほとんど使われていなかったと思います。

お台場にあるダイバーシティが竣工したのが10年ちょっと前で、その辺あたりから多様性に対する認知が広まっていったような気がします。

多様性を英語にするとダイバーシティなんですが、ダイバーシティと聞いてみんなが思い描くのはお台場のそれだと思います。

ダイバーシティのスペルはdiversityですが、お台場にある方はDiverCityでスペルをもじったネーミングとなっています。

それはさておき、それ以前、20年以上前になってくるとLGBTなんて言葉もありませんでした。

レズやゲイはありましたが、バイやトランスジェンダー(某学園ドラマで上戸彩がトランスジェンダーを演じていましたが、その時の呼称は性同一性障害)の認知度はほとんどなかったと思います。

このように昔に比べて今の方が世間一般に浸透している言葉の数や認知量が増えているのは確かです。

LGBTもLGBTQになり、LGBTQ+と無限増殖していっています。

しかし、実態としての多様性についてはむしろ減少しているような気がしてなりません。

多様性にまつわる語彙は置いておいて、明らかに昔の方が種々雑多な人々が自分の周りにいたような気がします。

自分が子供の頃は、自分と同じ年代の人たちも周りの大人たちも、良い悪いに関わらず(悪い方が多かったかも)一人ひとりのクセやアクが強かったと、今の人たちと比べて感じます。

具体的なクセやアクがなんなのかを書きたいところですが、コンプライアンスの観点からここでは書き控えさせていただきます。

そう、コンプライアンスなんて物言いも昔はありませんでした。(ガバナンスはあったかも?)

人々だけでなく建物もそうです。

昔は地域ごとに特色がありましたが、現代では個人商店は数を減らし、画一化された商業施設に置き換わっていっています。

駅ビルは一様にatreになり、ショッピングモールに入居しているテナントはどこも似たり寄ったりです。

みんなが多様性について過敏になっているのは、そういった画一化されていく時代の変化に対するカウンターカルチャーなのかもしれません。

満たされている人がことさら何も求めないように、その要素が欠乏しているからこそ渇望が生まれるのです。

逆に昔は、今と比べて、おおらかというか、適当というか、雑というか、不統一というか、無茶苦茶というか、不法状態というか……まぁ、色々フリーダムだったので多様性を認識する必要がないほど多様性に溢れていたのです。

多様性が実態から概念にシフトし、その概念が言葉に押し込められ、言葉が増えた分、実態はおざなりになり、むしろ認知の見える化が分断を加速させています。

グレーでなぁなぁに済ましていたところを白黒はっきりさせてしまえば、正誤や善悪の審判を否応なく下されてしまうのです。

語彙力や言語化を持て囃す風潮がありますが、言葉はしょせん言葉でしかなく「世界平和」といくら喚いたところで、地球上から紛争がなくなることはありません。

ここまでは実態の多様性と概念の多様性がトレードオフになっているのでは?という仮説の話でした。

もう一つ、ここからが本題なのですが、現代の情報社会では多様性の認知量が逆に多様性を狭めている現象がある、と私は考えています。

次の図を見てください。

【図1】

円の範囲が認知量で点が認知要素です。

Aであれば、認知範囲に要素が一つしかないので、多様性の前にそれはそういうものだと決めつけてしまうかもしれません。

最初に入った会社の常識を社会全体の常識と思い込んでしまうやつです。

だからこそ会社は新卒を採用して云々……の話は割愛します。

BやCであれば認知量が少ないので、自分の未熟さや無知の知に思いを馳せることができるでしょう。

問題はDです。

他三つに比べて認知量が多いため、自分は物知りだという驕りが発生しやすくなります。

当然、図に描いてあるとおり、いくら認知点が多いといっても、認知円の外にも無限の認知点が存在しますし、他の人の認知量が少ないとしても、それが自分の認知外の新しい認知要素であるかもしれないのです。

ですので、自分がみんなよりも多様性の理解者である自己認識を持つのは間違いなのです。

そして、さらに人間は似たもの同士が集まりますから、自分の周りの人たちと知識を共有しても結局は自分の認知円の中の点が増えていくだけです。

そうなれば驕りはさらに加速していきます。

現代ではそういった現象を指してエコーチェンバーと呼んでいます。

多様性はむしろ視野を狭くしてしまうのです。

LGBTQ+だってジェンダーの多様性をいくら担保しようとも、オスとメスが性交しなければ基本的に子孫を残せない点において、視野の狭い問題にすぎません。

無知蒙昧という言葉がありますが、現代では逆に、知識があればあるほど蒙昧にさせられる孔明の罠が至るところに仕掛けられているのです。

最後に、あまり声高には言いたくないのですが「科学的」もここでいう認知円の一つにすぎないのです。

Tag: 社会

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コミュニケーションは準備が9割

ビジネス書みたいなタイトルをつけましたが、最近とある出来事をきっかけにそういう考えが頭の中に浮かびました。

まず、とある出来事についてお話しします。

あるプロジェクトのリーダー的なサムシングな人がデイリースクラムという名の朝会をしたいと言い始めました。

そして、その方が朝会の実施手順をドキュメントにまとめ、毎朝その手順通りに朝会を実施することになりました。

実施内容の一つにアイスブレイク(雑談)がありました。

ファシリテーター(進行役)を持ち回りとし、その日のファシリテーターがネタを振る感じです。

いざ、朝会をやってみると、なんと、朝会をやると決めてアイスブレイクをやると決めた本人がアイスブレイクの段になると「…えーと、ネタをなにも考えてなかったなぁ…うーん、なに話そうかな…」と言い出したのです。

なんだったら毎回アイスブレイクの冒頭にこの発言をします。

私はこの発言に二つの意味で驚きました。

一つ目は、これから軽く雑談をするだけなのに、わざわざ「ネタ」を仕込んでおく必要があるのか?という驚きです。

そして、二つ目は自分でやると決めたことなのに、その準備を全くしていなかったことです。

一つ目については、何を話してもいいわけですから、昨日の出来事なり、今日の天気なり、事前に見た(読んだ)ニュースでも、ぱっと思いついたことをネタに適当に話題を振ればいいだけの話です。

そこを開口一番「何も考えてなかった」と言われると面食らってしまいます。

友達や同僚とランチに行って、その時の会話の最初に「特に話す内容考えてなかったんだけど…」と枕詞を差し込んで話始める人はいないと思います。

少なくとも今までの私の人生にはいませんでした。

まぁ百歩譲って一つ目は許せたとしても、二つ目はダメです。

「ネタ」を仕込んでおく必要があると分かっている以上、「ネタ」を事前に準備していないのはただの怠慢です。

しかも自分でやると決めたことなのですから尚更です。

私は有口無行が嫌いですので、その発言を聞く度にイラッとしてしまいます。

──といった出来事がありました。

その経験からコミュニケーションに大切なのはスキル云々ではなく事前の準備なのでは?という仮説が湧いて出てきました。

一般的なコミュニケーションスキルといえば、実際に相手とやり取りする際に自分がどのように振る舞うべきなのか、に焦点が当てられている場合が多いと思います。

しかし、コミュニケーションの優劣はコミュニケーションをする前にほぼ決していると言っても過言ではないのです。

コミュニケーションは言わばスポーツと同じです。

スポーツにおいては、試合と練習では圧倒的に練習の時間のほうが長く、実際の試合を通じて自身の才能を開花させていきます。

コミュニケーションもそれと同じく、事前の準備に多くの時間を割き、実際のコミュニケーションを通じて、より良好なコミュニケーションの取り方を自分の中に蓄積させていくものだと思うのです。

実践の数をこなすのも一つの手ではありますが、やはりある程度は準備をしておくにこしたことはありません。

野球やサッカーだって、基本的なルールの理解と、ある程度ボールを扱えないと試合になりません。

では、コミュニケーションにおける準備とは一体なんなのでしょうか。

それにハッと気付いたのが最初の出来事です。

そこではサラッと「ぱっと思いついたことをネタに適当に話題を振ればいい」と書きましたが、これこそが事前に準備がいることだったのです。

相手との間柄やシチュエーションによってその場で扱える「ネタ」や「言動」には大小さまざまな制約がかかります。

同じ雑談でも、家族や親友と喋るのと会社の上司とでは勝手が違うはずです。

社長となると(大企業であればあるほど)もっと変わってきますし、天皇陛下となったら、もはや何を話せばいいか分かりません。

また同じ相手でも、相手の機嫌や状況によってこちらの振る舞い方も変わるはずです。

そういった色んなパターンに対応するには、それ相応の「ネタ」や「言動」を自分の中にストックしておく必要があるのです。

話の引き出しがいっぱいあれば、その分だけ色んな相手や状況に対してコミュニケーションに臨むことができます。

自分の引き出しに事前にたくさん衣服をストックしておくことがコミュニケーションにおける準備となるのです。

ネタのストックがたくさんあれば「この人なら下ネタでもいけるな」や「この人は硬い人だから経済の話でもしとくか」と多様な人と仲良くなれるようなコミュニケーションが取れるようになります。

また語彙が少なくても「ノリ」や「共感」を能力として活かすこともできます。

さらに、コミュニケーションには言葉のやり取りだけでなく、ノンバーバルコミュニケーションという言語を超えた部分でのやり取りも発生しています。

見た目や顔の表情、身に纏っている衣服、身振りや手振り、なんだったら自分の発している匂いもコミュニケーションの一部なのです。

自身の身なりや清潔感、見た目はコミュニケーションにおいてとても重要です。

なんといったって人は見た目が9割らしいですから。

だから営業の人はスーツですし、シリコンバレーのエンジニアはTシャツとジーンズなのです(本当かどうかは知りません)。

見た目の時点で既にコミュニケーションは始まっているのです。

「※ただしイケメンに限る」はその最たるものです。

そういったノンバーバルな要素は全て、やり取りをする「前」の時点における自分の手札です。

身だしなみを整えるのも、服を選ぶのも、笑顔を出せるようにしておくのも事前の準備にかかっています。

そして、それらはコミュニケーションの内容そのものよりも重要だったりします。

誰だって汚い人、変な服を着てる人、不機嫌な顔の人、臭い人と会話したいとは思いません。

ノンバーバルコミュニケーションも含めると、コミュニケーションの構成要素において、事前の準備にかかる要素がいかに多いかが分かっていただけたと思います。

今回の理屈でいくと、いわゆるコミュ障がコミュ障である理由はコミュニケーションそのものが不得手なのではなく、コミュニケーション以前の準備にその原因がありそうです。

案外、よく寝て、よく食べて、よく運動して、体力と健康を取り戻せば、ほとんどの人はそれだけでコミュニケーション能力が上がる気がします。

健康であれば、見た目も良くなりますし、行動する気力も手数も増え、その分コミュニケーションの引き出しも増えるので、コミュニケーションの事前準備が捗ります。

そう考えるとコミュニケーションは健康が9割だと言っても過言ではないでしょう。

……あれ?

Tags: コミュニケーション,

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イノベーションのジレンマ

というタイトルの有名な論文があります。

これからまさにそのことについて書こうと思うのですが、実のところ私は読んだことがありません。

しかしハーバードビジネスレビューは手元にあり、その中の「”イノベーションのジレンマ”への挑戦」は読んであります。

その上で、タイトルをテーマに書いていきます。

上記の読んだ方の論文から推測するに、イノベーションのジレンマとは大雑把に言えば、会社がでかくなれば色々と制約が増えるから、破壊的イノベーションが発生しにくくなり、長期的にはジリ貧になっていきますよ、ということだと思います。

上掲の本からそれっぽいことが書いてあった箇所を引用します。

ある仕事を成し遂げるためのプロセスは、それ以外の仕事を行うことを不可能にしているのだ。

時が経つと、組織の能力は(人材から)プロセスと価値基準とに重心をシフトする。

企業文化というかたちで刻み込まれると、組織の能力を変えることは極めて困難となる。

大企業にイノベーションを起こすことがこれほど難しく見える理由は、対応すべき課題があり、きわめて有能な人材を雇いながら、その課題とは相容れないプロセスと評価基準とを持つ組織構造内で働かせようとするためである。

以上のように、会社が大きくなるにつれて人間駆動から組織駆動にシフトしていくので、組織に染みついたプロセス・価値基準・文化・評価基準から逸脱した行動がとりにくくなるのです。

会社としては現状のビジネスモデルが頭打ちになった時のために、常に新しい収益の種を蒔いておいて将来に備えておきたいのですが、実際には安定している現状のライフサイクルが優先され、そういった先行投資ができない様をジレンマとして捉えています。

なお、現代の大企業はイノベーションのジレンマ問題をM&Aで解決しているようにみえますが、その話については割愛します。

上記のジレンマの話は一旦横に置いておいて、今回はちょっと視点を変えて、無秩序と秩序の関係からイノベーションのジレンマを考えたいと思います。

元のイノベーションのジレンマの話も突き詰めれば混沌と秩序の中庸をめぐる問題なのです。

大企業はたくさんの人が働いているので当然、それを支える土台が強固にしっかり築かれています。

大勢の人間をくまなく管理統制するためにはそれ相応のルールなり秩序が必要となります。

逆にできたてのスタートアップであれば一人、もしくは数人程度しかいないので、これといった規則をいちいち定めることは少ないはずです。

その分、その時その時の思いつきをすぐに実践に移しやすく、フッ軽で仕事を推し進めていくことが可能です。

規則の確認や把握、申請や承認作業、社内政治や根回しの有無は組織のアウトプット速度に直結します。

コーポレートガバナンスという言葉がありますが、管理統制の存在そのものは組織の機動力を下げています。

仮にキャンバスに絵を描いていたとして、クオリティを上げるために新しい筆を試したい、となったとします。

その場合、思い立ったが吉日、すぐに世界堂に行って筆を買い、領収書だけもらっといて、あとで会社に立て替えてもらう(個人事業主なら経費計上するだけ)のが最速だと思います。

それなりに裁量権が与えられていれば可能なムーブだと思います。

これがすごく秩序だった組織内だったらどうでしょうか。

まず、筆の扱いの取り決めが社内でどうなっているのか、規則を調べるところからやらないといけません。

そして、申請書を提出する必要があることが分かり、よく分からないたくさんの項目を埋めた後、さらに上司から承認をもらう必要もあるでしょう。

提出してもそこからさらに稟議に回されて、その回答が返ってくるまで数営業日待つことになるでしょう。

なんだったら社内に審査部門があって、筆の導入審査まで行われるかもしれません。

そして、無事承認された後も、備品登録申請やら立替申請やら、いろんな手続きを経て、やっと新しい筆が自分の手元にきます。

業務上絶対にする必要のあることなら百歩譲っていいとしても、少し新しいことを試してみたい、ぐらいのノリでここまで労力が必要だったとしたら、ほとんどの人は試すことを躊躇うでしょう。

人間、めんどくさいことは嫌なのです。

ルールは無条件に大事なもので前提としてとりあえずあった方が良い、というふわっとした思い込みが不文律としてみんなの中に刷り込まれていると思います。

しかし「めんどくさい」や「ダルい」という圧倒的なデメリットが、秩序やルールには存在するのです。

問題が発生する可能性があったとしても、ある程度は無秩序を許容しておかないと、秩序により発生する怠さによって人々の活動意欲が削がれます。

ボールを投げたい人間にボールを蹴ることしか許されないルールを押し付けても、ボールを扱うこと自体をやめるだけです。

少子化も社会が秩序化し過ぎて、「めんどくさい」や「ダルい」が積み重なった結果だと思っています。

戦後だったり発展途上国や紛争地域のようにカオスってる方が出生率は高いのです。

少し話が違うかもしれませんが、田中角栄待望論みたいなのもこれと同じパターンです。

政治家に秩序を求めすぎた結果として、そういう豪胆な人はそもそも政治家など目指さなくなり、稀代の政治家たりえる人物は待てど暮らせども一向に現れないのです。

人望もカリスマも実行力もあるなら、自由の少ない政治家よりもワンマン社長になって好き放題やってた方が人生を楽しめるはずです。

安定を継続させるなら秩序はとても大事ですが、さりとて、現状維持は衰退の始まりもまた然りです。

諸行は壊法ですから変化なきものは淘汰されます。

秩序だけを追い求め続けても、訪れるのはディストピア小説のような世界です。

ルールや取り決めをいくら積み上げても「めんどくさい」が勝てば、人は秩序を放棄するでしょう。

「呼吸をしてはいけない」と法律で決めたところで、そんなものは誰も守らないし守れないので、ただの絵に描いた餅にしかなりません。

禁酒法を作っても人々は隠れて酒を密造するようになるだけです。

このようにルールがあるだけでルールが守られるわけではありません。

ルールを守るという全員の実際の行動が、そのルールに存在価値を与えるのです。

逆に不文律であってもみんながそのように振る舞っていれば、そこに秩序は存在します。

ルールがあろうがなかろうが、その場の人間の行為だけが秩序に影響を与えます。

そして、人は自分に合った秩序の場を求めて集団を形成するのです。

ゆくゆくは、定められた秩序に適応できる人々だけが集まり、留まるようになるので、多様性もどんどん失われるでしょう。

そして秩序というコンパスがないと行動できない人間が量産され、より人々の行動は硬直化し、変化にも対応しづらくなるのです。

ですので、多少の無秩序(カオス)を受け入れないと、環境の変化に対応していくことはできません。

一番最初に話が戻りますが、成長して秩序だっていく組織とは逆に、その分、無秩序性が失われて変革や未来への投資への動きが取りにくくなる様がイノベーションのジレンマと被るのです。

ルールがあればあるほど色々とめんどくさくなるので「行動」の難易度が上がります。

しかし、自主性を発揮してもらうには可能な限り「行動」を起こしやすい環境を用意する必要があります。

そうなると、ルールや手順は少なければ少ない方がいいに決まっています。

規律やルールをてんこ盛りにしておきながら、革新性や自主性を求めるのは矛盾しています。

そもそもルールは自主性(自然権)を殺すために存在しています。

適切な管理運営のためには、問題を起こさないように行動力を削いでおかないといけないからです。

手を使ったらサッカーにならないように、行動を抑制するのがルールの本質です。

しかしながら、イノベーションを期待するなら行動力は最大限発揮できるようにしておかなければなりません。

本当はそういった二律背反を常に意識しながらルールや規律を考える必要があるのです。

ルールありきでしか物事を考えられなくなれば、例えば、スポーツが野球しかない世界だったら、野球のルールのアレンジはできても、サッカーやバスケなどの他の種目を創造することができなくなってしまいます。

しかし、ルールという前提を取っ払えば、いくらでも新しいスポーツを考案することが可能です。

適切に管理したいのであれば取り決めを増やせばいいですし、個性を発揮させたいだとか、人間の持つ能力を伸ばしたいのであれば取り決めは減らさなければいけません。

ただし、両方を同時に叶える銀の弾丸はなく、二兎を追う者は一兎をも得られないのです。

Tags: 社会, 仕事,

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