言語化は思考のコンパイル
なんとなく頭の中にある思いや考えを言葉として相手に伝えることは、みんなが思っているよりもめんどくさいし難しい。
なにか本を読んだり、誰かしらからためになるお話を聞いても、ほとんどの人のアウトプットは「勉強になった」「新しい気づきを得た」「面白かった」「良かった」ぐらいで、具体的な中身がない。(noteなどで内容をまとめられるのはごく一部の人だけ)
なぜそうなるかというと、当人の語彙力が低い可能性もあるが、自分の頭の中にあるふわっとした思考を具体的な文章に落とし込む難易度が高いからだ。
だからこそ、本を読んだりした時に、自分がやんわり思っていたことが言語化されているのを目の当たりにし「そういうことか!」と膝を打ってしまう。
逆説的にいうと、普段自分の脳内で存在していると思っている思考は、実は言語化されていない。
もしくは、言語化されていても抽象度がとても高い。
普段から、自分の頭の中をこねくり回して文章を絞り出しているから分かるが、たくさん文章を書いてきた自分からしても思考を文章に落とし込むのは難しい。
現に、今書いてるこの文章が全然書き進められない。
自分の頭の中に表現したい何かしらの思いは明白にあるのに、それをすっと文章に落とし込めない。
「わかったつもり」という表現があるが、これは、読んだり聞いたりしたときに「分かった気分」にはなるが、その内容をあらためて自分で説明したり実践したりはできない状態のことだ。
「わかったつもり」は自分の頭の中でふんわり思っていたことが「客観的に」言語化されただけに過ぎない。
客観的に言語化されていることと、主観的に言語化することは全く違う。
例えば、神絵師の描いた可愛い絵があって、それを参考にしたとて、自分もその絵と同じクオリティーの絵が描けるわけじゃない。
客観的に表現されているものがあるからといって、それだけで自分がそれと同じように表現できるようにはならない。
億万長者の自叙伝は無数に存在するが、それを読んだだけで自分も億万長者になれるわけじゃない。
そして、自分からアウトプットをしなければ「わかったつもり」を認識することもできない。
勉強して「完全に理解した」けど、いざ実際にやってみると「なにもわからない」となる現象がそれだ。
ダイエットの方法論も、実際に自分で実践して検証するまでは、それが正しいのかどうかは分からない。
アウトプットしてはじめて客観的な評価を得ることができる。
言語化すれば、その意味が明白になるし、実践をすればその成果が現れる。
そこではじめて、自分の思考が現実に反映される。
現実に反映されれば自分の頭の中に思い描いていたものとの差分が明白になる。
思っている分にはいい感じだったものが、言語化すると矛盾点が顕になったり、実践してみたものの、思いのほか成果が得られなかったりするかもしれない。
その時点で「わかったつもり」だったことが分かる。
言語化の習慣があると言語化した時に「なにか思ってた感じと違う」「これなんか間違ってるわ」「自分の言いたいことはこれじゃない」みたいに自分の間違いや勘違い、矛盾などに気づく。
気づくので、それを修正して正していくことができる。
よって、言語化をすればするほど、思ってることと発する言葉の乖離が減り、思っていることと実際の行動の乖離も減る。
言行が一致し、明行足に近づける。
逆に言語化をしなければ、思っていることと発する言葉が乖離していき、思っていることと実際の行動が乖離していく。
この点でもドキュメントおじさんは正確な仕事を遂行するために大事だとが分かる。
言語化をサボるから、みんなの頭の中と現実が乖離していきプロジェクトが炎上してしまう。
言語化をサボるから、運命の恋に落ちたカップルであろうと、時が経つにつれてどんどんと思いと現実が乖離していき、最終的にいがみあってしまう。
ところで、この言語化のプロセスはプログラミングにおけるコンパイルとよく似ている。
プログラミング言語は、最近でこそインタプリタ言語が主流だが、Perlが出る前ぐらいまでは、だいたいのプログラミング言語はコンパイル言語だった。(最近のJS界隈もほとんどコンパイル前提になっているが……)
コンパイル言語はソースコードをコンパイルして実行ファイルにしないとプログラムを動かすことができない。
ソースコードを書き上げても、コンパイラ(とリンカ)に通すと10行ぐらいの処理なのにそれ以上の量のエラーメッセージがでたりした。
それはさておき、ソースコードをいくら書こうとも、コンパイルを通して実行ファイルに変換できなければ、それは何も生産していないことと同義になる。
10万行のコンパイルできないソースコードは人間からみても機械からみてもゴミだが、10行のコンパイル可能なソースコードは、機械を動かすことができるし、人の目にも優しい。
さきほどの思考の言語化の話をコンパイルの話に落とし込んでみよう。
頭の中にある思考はソースコードにあたる。
そして、コンパイルを通して動くプログラムになるのと同じく、自分で言語化してみて、はじめてそれが相手に伝わる表現となる。
コンパイルと言語化は、その行為をもってしてはじめてソース(思考)に価値を与える。
ちなみに、コンパイルが通ったからといって、それがバグのないプログラムではないのと同じく、言語化できたとしても、それが正しいのかどうかは分からない。
しかし、プログラムが動いているからこそバグが顕現するのと同じく、言語化されたからこそ、その可否が言及できるようになる。
「5から3を引いたら残りは89」のようにでたらめな内容も言葉として表現できるし、それと同時に間違いを指摘することもできる。
ここまであからさまな事はなくても、実際に言葉として表現することで、矛盾に気づいたり、はたまた、思考が確たるものへと昇華するかもしれない。
「わかったつもり」から「わかった」に至るまでには、思考(ソースコード)の言語化(コンパイル)とデバッグが必要となる。
言語化をあまりしなかったり、下手だったりする人の「分かってる」「完全に理解した」には気をつけないといけない。
彼らが持っているのはまだ動かしたことのないソースコードなのだから。
Tag: 哲学
ランニングライト
引っ越しで街灯のある公園から街灯のない河川敷にランニングコースを変えたので、色々ランニング用のライトを買って試したのでその備忘録。
夜の河川敷を走ってて思うのが、対向自転車のライトがきつすぎて前が見えなくなるのがきつい。
なんなら周りが暗いことよりも対向車のライトで視界が奪われるほうがきびしい。
あと、ライト無しで歩いたり走ってる人が多すぎ。
歩行者はなんか光るものか反射板身につけて、自転車の人はライトをロービーム気味にしてほしい。
アームバンドタイプ1
とりあえず、自分の視認性のためにライト買っとくかで買ったやつ。
自分の腕が細すぎて、目一杯縮めてもまだズレてくる。
あと、若干ゴツくて微妙だった。
ネックライト1
なんかランニングライトって書いてあったから買った。
ランニング中の体の揺れには耐えれんかった。(走ってると体の揺れでライトがズレて落ちる)
光量も微妙で、ウォーキングか読書用までかな。
たすき型のライト
ちょっとゴツくて、つけるのがめんどくさくて、見た目も微妙だけど、前面の道を照らす分にはいい感じだった。
ただ、前面を照射するので対向者に対して眩しい思いをさせてるかも?
ただ、防水って書いてあるのに雨の日に使ってたら普通に壊れた。
ネックライト2
これのネックストラップタイプを買った。
これもランニング中の体の揺れが激しくてダメだった。
あと、このライトもかなり明るいので正面を向けて照射すると対向者が眩しいかも?
これと同じ感じのライトが別のところだともっと安く売ってたりする。(他のやつは買ってないのでよく分からんけど)
アームバンドタイプ2
もう前面照らすライトはあきらめて、視認性のためのライトでいいや、で買ったやつ。
軽いし、簡単に腕に巻き付くし、結構明るいので、視認性のためのライトならこれでいいと思う。
小型ライト+リストバンド
しばらく上記のアームバンドだけで走ってたけど、ある日天啓を受ける。
上記のアームバンドとネックライト2で紹介したライトを組み合わせれば自分の足元だけ照らせていい感じなんじゃね?と。
実際にやってみたら、いい感じだった。
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ただ、これだとライトがすっぽ抜けて落ちる可能性があるので、ライトの裏が磁石なっているのを利用して、磁石付きのバンドで引っ付ければいいんじゃね?と、次の商品を買った。
これで、いい感じに引っ付いたけど、ただ少し重いのが玉に瑕。
腕時計型ライト
そうだ、そもそも最初から腕時計型のライトを買えばよかったんじゃね?ということで買ったやつ。
さっきのやつより軽いものの、ライトの光が直線的であまりいい感じに前面を照らしてくれなかった。
歩きぐらいの速度だといいけど、ランニングの速度になるときつい感じ。
あと、充電の状況が分からないのが微妙。
リストバンド型ライト
そしてとうとう見つけてしまいました。
真打ち登場です。
これを腕に巻いてFLOOD BEAMで足元を照らせば「小型ライト+リストバンド」でやってたのが実現できるじゃんか、と。
なんか商品の箱のデザインも洒落てて、商品自体もいい感じでランニング中の足元を照らすライトとしてもいい感じでした。
Tag: 日記
上から来たものを下へ受け流すの社会
当エントリはFediverse Advent Calendar 2022第二会場の1日目の記事です。
少し前に、知識量と意思決定の質は比例しない話を書きましたが、そもそも個人が昔に比べて知識をいっぱい蓄えているという前提が間違っている気がしています。
自分は人に対してあまり個性を感じない人間なんですが、その理由が何となくみえてきました。
知識や情報は個人に属するのではなく社会に属するものだと分かったからです。
だいたいみんな、同じようなタイミング、同じような話題で同じように感想を言い合っているだけで、それは個々人の意思表明というよりかは、社会に巻き起こったイデオロギーの鳴動の一部と認識するほうがしっくりきます。
世間にあふれる知識や情報は昔に比べて格段に増えたでしょう。
しかし、個人が持つ知識量は増えたのでしょうか?
俗に言うおばあちゃんの知恵袋は、個人(おばあちゃん自身)の持つ知識と言えそうですが、ツイッター上でリツイートした投稿を個人(リツイートした人)が持つ知識として扱うには無理がある気がします。
よほど感銘を受けた内容であれば頭の片隅に残るでしょうが、たいていの内容は一ヶ月も経てば忘却の彼方へと消え去っているでしょう。
現代人は情報のキャッチアップやコミュニケーションを各種SNSにかなり依存している状態といえます。
SNSにおいて一番核となるコンセプトは「拡散」です。
インスタなら写真を、ツイッターなら情報を、フェイスブックならお気持ちを、フォロワーに対してばら撒きます。
そしてそれらは、共感(いいね)を得るために行っていると言っても過言ではありません。
ツイッターの「リツイート」に代表されるように各種SNSには投稿を人々に拡散するための仕組みが備わっています。
フェイスブックであればシェア、マストドンであればブースト、ミスキーであればリノート、といった具合です。
また、ハッシュタグと呼ばれる仕組みもほとんどのSNSで実装されており、投稿の拡散やイデオロギーの形成に一役買っています。
さて、この「拡散」という行為ですが、これはいわば情報を「右から左へ受け流しているだけ」だったりします。
SNSで大多数の人がしていることを客観的に表現するなら、上から来たもの(タイムライン)を下へ受け流している(ROM専 or リツイート)だけなのです。
自分で投稿したとしても、流れ(タイムラインやトレンド)に言及した内容が多いのではないでしょうか。(もしくはただの独り言)
ですので、SNS上には玉石混交の情報が無限に存在していますが、それぞれの情報はただインターネットの海に放出されるだけで、別に誰かが所有しているわけではありません。(厳密にいえば投稿の著作権は投稿者にありますが、その情報がどう扱われるかは投稿者の窺い知ることのできないことです。例えば村上選手がシーズン56号ホームランを打ったという記録は村上選手のものですが、その「情報」に所有者は存在せず、誰にでも扱うことができます)
いわば、情報の「流れ」があるだけなのです。
ふだん、我々はその「流れ」に乗ってきた情報をピックアップして日常のやりとりをしています。
その内容がその日その日の「流れ」によって多種多様であることから、自分たちがたくさんの情報や知識を「持っている」と思い込みがちですが、そんなことはありません。
情報は自分に留まることなく、流れの中に戻って流れていくだけです。
ツイッターのリツイートや記事のシェアは、自分の考えを表明している風に見せかけて、ほんとは、ただただ情報を拡散しているだけに過ぎないのです。
例えば、ある人が「ドル円相場が150円に!」というニュースをリツイートしたとします。
そこで、その人に「それが具体的にあなたにどういう影響を与えるのですか?」と突っ込んで聞いたとしましょう。
たぶん、「物価がヤバい」とか「家計に影響する」だとか、そのニュースに付随した情報を開陳してくれるでしょう。
しかし、これはニュースが発した将来の予測であって「自分の考え」ではありません。
その人が資産をドル建てで運用していて「50万円含み益が出て嬉しい」であれば自分の意見と言えるでしょう。
北朝鮮からミサイルが飛んでこようが、ケツ穴が確定しようが、アメリカの消費者物価指数の上昇率が市場の期待感を下回ろうが、自分に影響がない限りは、ただただ情報が右から左に流れていっているだけなのです。
ほとんどの個人はただの情報拡散装置なだけであって、情報の発信源ではありません。
自分が人に対してあまり個性を感じないのも、コンテンツよりコンテキストを重視するのもそのためです。
情報は本体よりも、そこから生じた振動のほうが圧倒的にデカくなるのです。
オリジナルのコンテンツは特定の一部にのみ水源として存在し、海に近づくほどに川が広がっていくように、どんどんコンテンツが増幅していき、その流れがコンテキストの川となるのです。
水源は同じでも上流と下流では水質が変わってきます。
ですので、ある一部分の水を汲み取って分析して「この川の水質はこうです」とは断定できません。
それと同じように、無作為に選んだ人間一人の趣向が分かったところで何もなりません。
しかし、集団から抽出した統計データにはコンテキストとしての利用価値があります。
例えば、電車で隣りに座っている知らないおっさんがちいかわ好きだと分かったとしても、それは果てしなくどうでもいい情報ですが、ちいかわは若い女性に人気があるという情報には価値があります。
はたまた、タピオカのムーブメントはみんなの知るところですが、実際にタピオカ屋をやってムーブメントを生み出した人たちに興味を持つ人はほとんどいません。
それがどんな人達だったのかほとんどの人は知りませんし、私も知りません。
今思うと、なぜあの頃はみんな無限にタピオカミルクティーを飲んでいて、今となってはほとんど飲まれなくなったのか、さっぱり分かりません。
タピオカ自体に価値があったなら今でも無限に飲まれているはずです。
しかし、そうはなっていません。
よって、タピオカというコンテンツに価値があったのではなくて、タピオカを右から左に流しまくってできたうねりが、人々をタピオカミルクティーの熱狂へと誘い込んだのです。
これがコンテンツよりコンテキストが大事だと思う理由です。
要は、知識や情報は個人が所有するものではなく、社会の中で常に流れ続けている漂流物だということです。
その流れがコンテキストや流行を生み、さらなるコンテンツを創造していくのです。
右から来たものを左へ受け流すだけの歌がなぜ流行ったのか、彼にその原因を求めても何も分かりません。
右から来たものを左へ受け流されたのは彼自身なのですから。
Tag: 哲学