ナラティブウィンドウ
昨年はClaude Codeをはじめ、Sora2やNano Banana Proなど、AIの飛躍的な進化を感じられる一年でした。
そこで今回は自分自身でAIを扱ってみた上で色々考えたことをまとめていこうと思います。
まず、ChatGPT登場の頃から現在に至るまで、ずっと言われていることで「AIが人間の仕事を奪う」があります。
私自身はその言説に対してとても懐疑的な立場でしたし、去年の飛躍的な進化で、むしろ逆に自分の仕事が増えてしまう、と危惧すら抱いています。
数年前に自動運転技術によってバスやタクシーの運転手は不要になるから、その仕事に未来はない、みたいな話が持て囃されていました。
ところが今はどうでしょうか?
バスの運転手不足で路線の廃止や減便が発生し、一部地域の人たちの日常生活に死活的な影響を及ぼしています。
将来的には無くなるのかもしれませんが、今現在においては高齢化社会による現役世代の減少により、むしろ需要は高まっています。
AIが発展するたびにビジネスインフルエンサー的なサムシングが「この仕事は将来なくなる!」と声高に叫びますが、少し現実に対して無責任すぎます。
実際に将来無くなるにしても移行期は存在するわけですから、担い手を断絶するような言説は適切ではありません。
最近でも、バイブコーディングという概念が生まれて「もう人間がプログラムを書く必要がない」と言われていますが、私からすれば「寝言は寝て言えよ」という気分です。
私がシステム開発にAIを導入して感じたことは「これ、仕事がなくなるんじゃなくて逆に仕事が激増するんじゃね?」でした。
AIは確かにとても賢くて、ちょっとした指示を出すだけで大量のコード(なんだったら文章も)を生成してくれます。
しかし、AIの生成物には圧倒的に足りないものがあります。
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AIの生成物に足りないものは一体なんなのでしょうか?
AIの生成物に足りないものを早く言いたいのですが、もう少し我慢してください。
というか、少し間を空けたせいで足りないものがなんだったのか忘れてしまいました。
一旦仕切り直して、AIについて改めて考えてみましょう。
AIが得意なのは模倣と量産です。
会話や文章はおろか、今では画像、動画に至るまで、ちょっとしたプロンプト(AIに対する命令)で誰でも簡単にいろんなアウトプットを生成できます。
しかも、ぱっと見のクオリティは高い。
全くプログラムが書けない人が実際に動くコードを生み出せる。
全く絵の描けない人が自分では到底描き上げられない絵を生み出せる。
映像制作のノウハウが全くなくてもショート動画くらいなら簡単に生み出せる。
インターネットがメディアを一般市民に開放したように、AIはコンテンツ生成能力を一般市民に開放したのです。
世はまさに大コンテンツ時代になりました。
しかし、AIの生成物には圧倒的に足りないものがあります。
そう、戻ってきました。
AIの生成物に足りないものを早く言いたいのです。
もうレイザーラモンRG的なノリはいいでしょう。
AIの生成物に足りないものを早く言いたい。
先ほどの話、今までのブログの内容、そして当エントリのタイトル。
勘のいい人はピンときていると思います。
そう、AIの生成物に足りないものは「コンテキスト」です。
生み出した「コンテンツ」単体としてのクオリティは確かに高いと思います。
しかしナラティブのようにコンテンツをコンテキストに昇華・順応させるのはAIにはまだ難しいようです。
先月、試しにこのブログの文章を丸々AIに書いてもらいました。
その記事の最後にも書いた通り、そのクオリティの高さ、自分の文体の模倣度に感嘆しました。
正直「これもう、自分で文章書かなくても毎月AIに文章書かしても同じなのでは?」と思いました。
確かに自分が書いたように見せかけてAIに文章を書かせても、8割方の読者はこれから先も気づかないと思います。
そもそもこの文章が私(人間)が書いたものかAIが書いたものか分別できますか?
その辺のネタバラシは最後に取っておくとして、自分が文章を書くことについての価値が揺らいだのは事実です。
その後、さらに試しに翌月(このエントリの分)もAIに何個か書かせてみました。
結果は、今この文章を読んでいれば分かりますが、当然ボツです。
確かに文章のクオリティも文体の模倣度も内容もとても良くできていました。
しかし、私自身が読んだ感想が「過去の自分の擦り潰し」のようにしか感じませんでした。
私自身がずっと文章を書き続けているのはあくまでも自分のクリエイティビティに心酔しているからです。
AIが生成した文章からはクリエイティビティまでを感じ取ることはできませんでした。
このブログはいわば、私という存在のナラティブです。
ですので、新しい文章にはちゃんとナラティブを紡いでほしいのです。
ただ単にそれっぽい文章を書き続けるだけなら全然AIでもいいのです。
しかしそれだと私の中でこのブログの存在意義がなくなってしまいます。
誰でも書ける文章であるならば、それをわざわざ自分で書こうとは思いません。
自信過剰かもしれませんが、私は自分の書く文章は自分にしか生み出せないと思っていますし、世に溢れる8割方の書籍やブログの文章よりも自分の文章の方が優れていると思っています。
だからこそ、新しく書く文章には何かしらのアウフヘーベン的なサムシングが欲しいのです。
何故かルフィが海賊王を目指さなくなってクルーの日常を描くようになったワンピース。
暗黒大陸を目指す船から一変して、念を使えないゴンの当たり障りのない日常を描くハンターハンター。
コンテンツとして成立はするでしょうがみんなが読みたいのはそれじゃないでしょう。
コンテキストあってのコンテンツであり、コンテンツ単体には実はあまり価値はないのです。
野球(コンテキスト)あっての大谷翔平(コンテンツ)であり、野球のない世界の大谷翔平はただの無名の超人です。
よって、いくらコンテンツ単体のクオリティが高くても、コンテキストがお粗末であれば砂上の楼閣になってしまいます。
草野球で大谷翔平と同等の身体能力を発揮しても1000億円のお金は動きません。
現状のAIは、人類が積み上げてきた莫大な知識量を活かす事はできますが、利用者個々のコンテキストを把握し(続け)たり、コンテンツを紡いでナラティブを築くことは苦手です。
そして、この現実はAIを扱う人間の活用能力の格差を引き起こしています。
最初の方で私が危惧していた、AIが逆に仕事を増やす懸念はここに繋がります。
「AI→生成」とAIを基軸にAIを使おうとしている人は軒並みダメであり、「人→生成→AI→生成」とあくまでも人間基軸の使い方をしないと生産性に結びついていない気がします。
前者は目に見えてアウトプット量が増えるので短期的にはプラスに見えますが、長期的にはその圧倒的なアウトプット量が認知的過負荷を生み出し、マイナスに滑り落ちていきます。
人間がコンテキストを掌握しているかしていないかで長期的な生産性に致命的な格差を引き起こします。
AIのアウトプットに無理やり自分を合わせてしまったり、もしくは「木を見て森を見ず」みたいに目の前のアウトプットだけに気を取られて長期的な視野が欠けている場合、その認識の有無に関わらず、本来であれば実務上仕上がってくるはずのコンテキストが欠損してしまいます。
先ほど書いた通り、現在のAIにはコンテキスト力が不足しています。
その不足分のコンテキストはまだ人間側に委ねられており、その有無でアウトプットの品質が大きく変わるのです。
AIをベースにアウトプットを錬成するのではなく、人間側のアウトプットをベースにAIでフィードバックループを回す使い方をしなければ、逆にAIに使われることになります。
あくまでも創造性は自身に宿っている必要があり、コンテキストやベースを欠いた状態でいくらAIを駆使したところでAIを有効的に活用することはできません。
AIが出力するアウトプットは高速で大量であり、ちょっとでも気を抜けば、むしろその圧倒的なコンテンツ量で人間側のコンテキストを破壊してくるのです。
よって、現時点での正しいAIの使い方は、あくまでも人間がコンテキストをきちんと把握した上で、AIにコンテンツを生成してもらうことです。
逆のパターン、AIを主軸にして人間がそのコンテキストに従うような使い方はアンチパターンとなるのです。
一応、LLM(大規模言語モデル)にはコンテキストウィンドウがあり、一定量のやり取りの記憶を保つ事は可能です。
しかし、それも人間が抱えているコンテキスト量と比べれば月とスッポンです。
ノウアスフィア(人類が積み上げてきた莫大な知識量)を扱う事はできても使用者個人個人のセッションを全て記憶しておくことはできません。
どこまで賢くても翌日に記憶を持ち越せないなら、長期的で偉大な仕事を成し遂げることは不可能です。
シンギュラリティに到達するには少なくとも無尽蔵のコンテキストウィンドウ、すなわちナラティブウィンドウは必須でしょう。
最後にこの文章がAIが書いたのか人間が書いたのかのネタバラシですが、この文章の最初の部分に「AIに足りないのはコンテキスト」の解答を提示するまであえて冗長な文章構成で書きました。
雑に「1月分の文章を書いて」の指示だけでAIがこんな芸人ネタを用いた上でまどろっこしい書き方をするのは不可能です。
しかし、コンテキストを自分が完全に掌握した上で事細かに指示を出せばこういった文章も作成可能ではあるでしょう。(ちなみにこの記事は一切AIに書かせていません)
障害なき絶望と摩擦という希望
前回はClaude Sonnet 4.5に記事を書かせてみましたが、ついでにGoogle Gemini 3 Proにも記事を書かせてみました。
個人的な採点はClaudeが80点でGeminiは60点ぐらいです。
今回の記事は結果的にかなりプロンプトのやり取りをした上、さらに自分で直接文章を指定したので全部AIに書かせたとは若干言いづらいですが……
ちなみに著者はレコードをかけたこともなければコーヒー豆を挽いたこともありませんのであしからず。
最近、あらゆるものが「スムーズ」になりすぎている気がする。
Amazonでポチれば翌日に荷物が届く。
動画配信サービスで観たい映画が即座に再生される。
分からないことがあればAIが瞬時に答えを教えてくれる。
私たちの社会は、徹底的に「摩擦」を排除する方向へ進化してきた。
効率化こそが正義であり、待ち時間や手間といったノイズは悪であると。
しかし、摩擦が完全にゼロになった世界で、私たちは本当に「生きている」という実感を持てるのだろうか?
例えば、レコードで音楽を聴く行為を考えてみてほしい。
ジャケットから慎重に盤を取り出し、ターンテーブルに載せ、針を落とす。
そこには物理的な手間、そして針と盤が擦れ合う摩擦がある。
だが、その摩擦こそが「これから音楽を聴くぞ」という儀式として機能し、体験の解像度を高めているのではないか。
Spotifyでワンタップで再生される音楽は便利だが、どこかBGM的で、消費されるだけのコンテンツになり下がっている気がしてならない。
これは便利さは感謝を失わせるという話にも通じるが、もっと根源的な「質感」の話だ。
ツルツルの氷の上を歩くのが難しいように、人生にもある程度の「引っかかり」がないと、私たちは前に進んでいる感覚を得られない。
摩擦は、移動を妨げる抵抗であると同時に、移動を可能にするグリップ力でもあるのだ。
もちろん、摩擦が強すぎると前に進むことすらできず、人生はただの苦役になってしまう。
だが、現代はあまりにも摩擦係数がゼロに近づきすぎている。
試行錯誤というプロセスもまた、摩擦そのものだ。
失敗し、悩み、遠回りする。
効率至上主義の観点から見れば無駄でしかないその時間が、実は私たちの中に「経験」という名の沈殿物を残していく。
AIに答えを聞けば、摩擦なしに正解に辿り着ける。
だが、そこには「納得」という手触りがない。
他人の答えを借りてきただけで、自分の血肉にはなっていないからだ。
人間関係においても、私たちは摩擦を忌避しすぎている。
一昔前であれば常識や「当たり前」のイデオロギーを維持するための副作用として、そこから外れた人は強制的に人格矯正の研磨(摩擦)にさらされる圧力があった。
しかし、多様性やジェンダーレスという概念がその摩擦を排除してしまった。
その結果、今では「誰かを不快にさせるリスク(摩擦)」を極限まで減らすことが最優先され、エコーチェンバーの加速と社会の分断化が進んでいないだろうか。
ハラスメント認定を恐れるあまり、私たちは行動を抑制し、他者と深く関わることを避けるようになった。
傷つかないし、傷つけない。
その関係性は確かにスムーズだが、それだと他者という「異物」と衝突した時に発生するエネルギーが生じなくなる。
エネルギーが生じないということは、生きる活力も湧かないということだ。
私たちは今、あえて「摩擦」を設計に取り入れるべきフェーズに来ているのかもしれない。
UIデザインの世界では「フリクションレス」が良しとされるが、人間工学的には、適度な抵抗感があった方が操作ミスは減るし、操作したという確信も得られる。
iPhoneのホームボタンが物理ボタンから感圧センサーに変わった際、わざわざ振動で「押した感」を擬似的に再現したように。
人生も同じだ。
何でも思い通りになる世界は、きっと退屈で死にたくなるだろう。
思い通りにならない現実、理解できない他者、解決できない悩み。
そういった摩擦係数の高い要素こそが、私たちの生を「リアル」なものにしている。
「面倒くさい」は、実は「生きている」の同義語なのかもしれない。
だから私は、今日もわざわざ豆を挽いてコーヒーを淹れる。
全自動のエスプレッソマシンの方が早くて美味しいかもしれないが、あのゴリゴリという感触と香りがなければ、私の朝は始まらないのだ。
摩擦を愛そう。
それが、自動でスルスルと過ぎ去っていく時間に対する、唯一の娯楽なのだから。
区切りという儀式
「今年も終わるね」と人々は年末になると口にする。
しかし、冷静に考えてみれば、12月31日の23時59分59秒から1月1日の0時0分0秒に切り替わる瞬間に、この世界で何か特別なことが起きているだろうか?
地球は相変わらず太陽の周りを回り続けているし、私たちの心臓も呼吸も連続的に動き続けている。
昨日の延長に今日があり、今日の延長に明日があるだけで、そこに境界線など実在しない。
それなのに、私たちは暦の上での「区切り」を、まるで実在するかのように扱っている。
「新年」という概念に特別な意味を見出し、「今年こそは」と決意を新たにする。
これは不思議なことではないだろうか?
いや、不思議というよりも、むしろ滑稽でさえある。
年末になると、大掃除をしたり、忘年会で一年を振り返ったり、年賀状を書いたり、除夜の鐘を聞きに行ったりする。
まるで年が変わることで何かがリセットされるかのように。
しかし、リセットボタンを押せば全てが初期化されるゲームとは違い、現実の世界では何も変わらない。
去年から抱えている借金は元旦を迎えても消えないし、12月31日に太っていた人は1月1日になっても太ったままだ。
去年と同じ自分が今年も続いていく。
それでも私たちは「今年こそは痩せる」「今年こそは貯金する」と目標を立て、「心機一転」と何か変わったかのように決意を新たにする。
実在しない境界線を、さも実在するかのように扱い、その境界線に特別な力があるかのように振る舞うのだ。
この奇妙な現象は一体何なのだろうか?
この現象は、人間が言語化によって世界を認識する存在であることと深く関わっている。
連続的な時間の流れを、「年」「月」「日」という単位で区切り、名前をつけることで、私たちは時間を把握可能なものにしている。
もし暦がなければ、時間はただの連続した流れでしかなく、「去年」も「来年」も「今年」すらも存在しない。
過去を振り返ることも、未来を計画することも、今よりずっと難しくなるだろう。
つまり、暦の区切りは単なる便宜上の目印ではなく、人間が時間という抽象概念を扱うための認知的な道具なのだ。
そして、道具を作ったのは人間だ。
実在しない区切りを人間が作り出し、その作り出した区切りに人間が従っている。
これは逆説的な話だが、人間が作り出した虚構が、逆に人間の思考と行動を規定しているのである。
現実は思考化するのと同じく、ここでは道具が使う人の動作を定義するのである。
区切りという道具を作った結果、人間は区切りに従って生きる存在になってしまった。
そして、その道具を使いこなすために、私たちは区切りを「儀式化」する。
大掃除を例に考えてみよう。
なぜ年末に大掃除をするのか?
べつに年末じゃなくても大掃除はできるはずだ。
梅雨前の5月に掃除をしてもいいし、夏休みの8月に掃除をしてもいい。
しかし、私たちは年末に大掃除をする。
それは年末という区切りに「リセット」という意味を付与しているからだ。
物理的な掃除をすることで、精神的なリセットの儀式を執り行っているのである。
忘年会もそうだ。
ただの飲み会なのに、わざわざ「忘年」という名前をつけて、一年の区切りを共同体で確認し合う。
初詣も同じく、新年の始まりを神聖化する儀式だ。(実際には1月4日に行っても初詣なのだが、それはさておき)
こうした儀式を通じて、私たちは人工的な区切りに実体を与え、心理的な境界線を引いているのである。
ここで面白いのは、儀式は実際に効果を持つという点だ。
本来は実在しないはずの区切りが、儀式を介することで現実に影響を及ぼすようになる。
年末に大掃除をして部屋を綺麗にすれば、確かに気持ちはすっきりする。
新年に目標を立てれば、それがモチベーションになって行動が変わることもある。
虚構が現実を動かすのだ。
これはカリスマ性の話にも通じる。
本来は概念に過ぎないものが、人々がそれを信じて行動することで、実際に力を持つようになる。
「新年だから頑張ろう」という気持ちは、客観的には根拠がないが、主観的には十分な動機になりうる。
暦の区切りもカリスマも、人間の認識と行動を変える力を持つという点で共通している。
しかし、ここには大きな落とし穴もある。
区切りに頼りすぎると、区切りがなければ行動できなくなってしまう。
「新年になったら禁煙する」「来月から本気出す」「年度が変わったら転職活動する」
こうした言葉を何度も繰り返しながら、結局何も始めない人は山ほどいる。
区切りは行動のきっかけにはなるが、区切りそのものが目的化してしまっては本末転倒だ。
区切りを待っている間に人生は過ぎ去っていく。
やることとやらないことの差は、暦の区切りとは無関係に存在する。
「やる」人は区切りなど関係なく今すぐやるし、「やらない」人は区切りがあろうがなかろうがやらない。
区切りはやる人にとっては便利な目印だが、やらない人にとっては便利な言い訳にしかならないのだ。
また、区切りは時として秩序として機能し、柔軟性を奪う側面もある。
「年度」という区切りに縛られて、本来は継続すべきプロジェクトが打ち切られたり、逆に区切りのために無理やり完成させようとして品質が犠牲になったりする。
会計年度、学校年度、人事評価の期間、こういった区切りは便利な反面、本来の目的を見失わせる制約にもなりうる。
区切りがあるから計画が立てられる一方で、区切りがあるから本来やるべきことができなくなる。
ここにも道具の逆説がある。
道具を使いこなしているつもりが、道具に使われているのだ。
結局のところ、区切りとは人間が作り出した虚構であり、その虚構を信じることで機能する儀式だ。
しかし、虚構だからといって無価値なわけではない。
むしろ、人間を形作るのは環境なのだから、自分で作り出した虚構という環境に自分を従わせることで、自分を動かすことができる。
虚構が現実を動かし、現実が思考を形成し、思考が行動を生む。
暦という虚構、区切りという儀式は、連続的な時間の流れの中で方向性を見出すための、人間らしい工夫なのである。
そう考えると、「今年も終わる」という言葉は正確ではない。
正しくは「今年も終わると人間が決めた」だ。
年は勝手に終わるのではなく、人間が終わらせているのである。
では、人間が作り出した虚構とどう付き合えばいいのか?
大切なのは、区切りに意味があると信じながらも、区切りに縛られすぎないことだ。
年が変わろうが変わるまいが、やるべきことは変わらない。
ただ、年が変わることを言い訳にして、あるいはきっかけにして、何かを始めたり終わらせたりするのは、それはそれで悪くない。
区切りは実在しないが、実在しない区切りを利用して自分を動かすことはできる。
それもまた、人間が持つ自己洗脳の一つの形なのだから。
虚構を虚構として認識しながらも、虚構の力を借りて生きていく。
これが人間という存在の面白さであり、滑稽さであり、そして愛おしさでもあるのだろう。
最後まで読んでもらってから言うのもアレですが、今回の文章は全部AIに書かせました。
過去のブログの文章を学習させて、「12月分の文章を書いて」と雑にプロンプトを投げただけ(微修正のためにちょっとだけプロンプトを追加しましたが)で、このクオリティの文章が仕上がりました。
すごく自分が書きそうなテーマと文体だったので、編集したい気持ちを抑えてあえてそのまま掲載しました。
タイトルもそうですし、別のエントリへのリンクもAIの判断によるものなので、これはすごいですね。
学習素材が良いと結果のアウトプットも良くなるんですね(