コミュニケーションは準備が9割
ビジネス書みたいなタイトルをつけましたが、最近とある出来事をきっかけにそういう考えが頭の中に浮かびました。
まず、とある出来事についてお話しします。
あるプロジェクトのリーダー的なサムシングな人がデイリースクラムという名の朝会をしたいと言い始めました。
そして、その方が朝会の実施手順をドキュメントにまとめ、毎朝その手順通りに朝会を実施することになりました。
実施内容の一つにアイスブレイク(雑談)がありました。
ファシリテーター(進行役)を持ち回りとし、その日のファシリテーターがネタを振る感じです。
いざ、朝会をやってみると、なんと、朝会をやると決めてアイスブレイクをやると決めた本人がアイスブレイクの段になると「…えーと、ネタをなにも考えてなかったなぁ…うーん、なに話そうかな…」と言い出したのです。
なんだったら毎回アイスブレイクの冒頭にこの発言をします。
私はこの発言に二つの意味で驚きました。
一つ目は、これから軽く雑談をするだけなのに、わざわざ「ネタ」を仕込んでおく必要があるのか?という驚きです。
そして、二つ目は自分でやると決めたことなのに、その準備を全くしていなかったことです。
一つ目については、何を話してもいいわけですから、昨日の出来事なり、今日の天気なり、事前に見た(読んだ)ニュースでも、ぱっと思いついたことをネタに適当に話題を振ればいいだけの話です。
そこを開口一番「何も考えてなかった」と言われると面食らってしまいます。
友達や同僚とランチに行って、その時の会話の最初に「特に話す内容考えてなかったんだけど…」と枕詞を差し込んで話始める人はいないと思います。
少なくとも今までの私の人生にはいませんでした。
まぁ百歩譲って一つ目は許せたとしても、二つ目はダメです。
「ネタ」を仕込んでおく必要があると分かっている以上、「ネタ」を事前に準備していないのはただの怠慢です。
しかも自分でやると決めたことなのですから尚更です。
私は有口無行が嫌いですので、その発言を聞く度にイラッとしてしまいます。
──といった出来事がありました。
その経験からコミュニケーションに大切なのはスキル云々ではなく事前の準備なのでは?という仮説が湧いて出てきました。
一般的なコミュニケーションスキルといえば、実際に相手とやり取りする際に自分がどのように振る舞うべきなのか、に焦点が当てられている場合が多いと思います。
しかし、コミュニケーションの優劣はコミュニケーションをする前にほぼ決していると言っても過言ではないのです。
コミュニケーションは言わばスポーツと同じです。
スポーツにおいては、試合と練習では圧倒的に練習の時間のほうが長く、実際の試合を通じて自身の才能を開花させていきます。
コミュニケーションもそれと同じく、事前の準備に多くの時間を割き、実際のコミュニケーションを通じて、より良好なコミュニケーションの取り方を自分の中に蓄積させていくものだと思うのです。
実践の数をこなすのも一つの手ではありますが、やはりある程度は準備をしておくにこしたことはありません。
野球やサッカーだって、基本的なルールの理解と、ある程度ボールを扱えないと試合になりません。
では、コミュニケーションにおける準備とは一体なんなのでしょうか。
それにハッと気付いたのが最初の出来事です。
そこではサラッと「ぱっと思いついたことをネタに適当に話題を振ればいい」と書きましたが、これこそが事前に準備がいることだったのです。
相手との間柄やシチュエーションによってその場で扱える「ネタ」や「言動」には大小さまざまな制約がかかります。
同じ雑談でも、家族や親友と喋るのと会社の上司とでは勝手が違うはずです。
社長となると(大企業であればあるほど)もっと変わってきますし、天皇陛下となったら、もはや何を話せばいいか分かりません。
また同じ相手でも、相手の機嫌や状況によってこちらの振る舞い方も変わるはずです。
そういった色んなパターンに対応するには、それ相応の「ネタ」や「言動」を自分の中にストックしておく必要があるのです。
話の引き出しがいっぱいあれば、その分だけ色んな相手や状況に対してコミュニケーションに臨むことができます。
自分の引き出しに事前にたくさん衣服をストックしておくことがコミュニケーションにおける準備となるのです。
ネタのストックがたくさんあれば「この人なら下ネタでもいけるな」や「この人は硬い人だから経済の話でもしとくか」と多様な人と仲良くなれるようなコミュニケーションが取れるようになります。
また語彙が少なくても「ノリ」や「共感」を能力として活かすこともできます。
さらに、コミュニケーションには言葉のやり取りだけでなく、ノンバーバルコミュニケーションという言語を超えた部分でのやり取りも発生しています。
見た目や顔の表情、身に纏っている衣服、身振りや手振り、なんだったら自分の発している匂いもコミュニケーションの一部なのです。
自身の身なりや清潔感、見た目はコミュニケーションにおいてとても重要です。
なんといったって人は見た目が9割らしいですから。
だから営業の人はスーツですし、シリコンバレーのエンジニアはTシャツとジーンズなのです(本当かどうかは知りません)。
見た目の時点で既にコミュニケーションは始まっているのです。
「※ただしイケメンに限る」はその最たるものです。
そういったノンバーバルな要素は全て、やり取りをする「前」の時点における自分の手札です。
身だしなみを整えるのも、服を選ぶのも、笑顔を出せるようにしておくのも事前の準備にかかっています。
そして、それらはコミュニケーションの内容そのものよりも重要だったりします。
誰だって汚い人、変な服を着てる人、不機嫌な顔の人、臭い人と会話したいとは思いません。
ノンバーバルコミュニケーションも含めると、コミュニケーションの構成要素において、事前の準備にかかる要素がいかに多いかが分かっていただけたと思います。
今回の理屈でいくと、いわゆるコミュ障がコミュ障である理由はコミュニケーションそのものが不得手なのではなく、コミュニケーション以前の準備にその原因がありそうです。
案外、よく寝て、よく食べて、よく運動して、体力と健康を取り戻せば、ほとんどの人はそれだけでコミュニケーション能力が上がる気がします。
健康であれば、見た目も良くなりますし、行動する気力も手数も増え、その分コミュニケーションの引き出しも増えるので、コミュニケーションの事前準備が捗ります。
そう考えるとコミュニケーションは健康が9割だと言っても過言ではないでしょう。
……あれ?
イノベーションのジレンマ
というタイトルの有名な論文があります。
これからまさにそのことについて書こうと思うのですが、実のところ私は読んだことがありません。
しかしハーバードビジネスレビューは手元にあり、その中の「”イノベーションのジレンマ”への挑戦」は読んであります。
その上で、タイトルをテーマに書いていきます。
上記の読んだ方の論文から推測するに、イノベーションのジレンマとは大雑把に言えば、会社がでかくなれば色々と制約が増えるから、破壊的イノベーションが発生しにくくなり、長期的にはジリ貧になっていきますよ、ということだと思います。
上掲の本からそれっぽいことが書いてあった箇所を引用します。
ある仕事を成し遂げるためのプロセスは、それ以外の仕事を行うことを不可能にしているのだ。
時が経つと、組織の能力は(人材から)プロセスと価値基準とに重心をシフトする。
企業文化というかたちで刻み込まれると、組織の能力を変えることは極めて困難となる。
大企業にイノベーションを起こすことがこれほど難しく見える理由は、対応すべき課題があり、きわめて有能な人材を雇いながら、その課題とは相容れないプロセスと評価基準とを持つ組織構造内で働かせようとするためである。
以上のように、会社が大きくなるにつれて人間駆動から組織駆動にシフトしていくので、組織に染みついたプロセス・価値基準・文化・評価基準から逸脱した行動がとりにくくなるのです。
会社としては現状のビジネスモデルが頭打ちになった時のために、常に新しい収益の種を蒔いておいて将来に備えておきたいのですが、実際には安定している現状のライフサイクルが優先され、そういった先行投資ができない様をジレンマとして捉えています。
なお、現代の大企業はイノベーションのジレンマ問題をM&Aで解決しているようにみえますが、その話については割愛します。
上記のジレンマの話は一旦横に置いておいて、今回はちょっと視点を変えて、無秩序と秩序の関係からイノベーションのジレンマを考えたいと思います。
元のイノベーションのジレンマの話も突き詰めれば混沌と秩序の中庸をめぐる問題なのです。
大企業はたくさんの人が働いているので当然、それを支える土台が強固にしっかり築かれています。
大勢の人間をくまなく管理統制するためにはそれ相応のルールなり秩序が必要となります。
逆にできたてのスタートアップであれば一人、もしくは数人程度しかいないので、これといった規則をいちいち定めることは少ないはずです。
その分、その時その時の思いつきをすぐに実践に移しやすく、フッ軽で仕事を推し進めていくことが可能です。
規則の確認や把握、申請や承認作業、社内政治や根回しの有無は組織のアウトプット速度に直結します。
コーポレートガバナンスという言葉がありますが、管理統制の存在そのものは組織の機動力を下げています。
仮にキャンバスに絵を描いていたとして、クオリティを上げるために新しい筆を試したい、となったとします。
その場合、思い立ったが吉日、すぐに世界堂に行って筆を買い、領収書だけもらっといて、あとで会社に立て替えてもらう(個人事業主なら経費計上するだけ)のが最速だと思います。
それなりに裁量権が与えられていれば可能なムーブだと思います。
これがすごく秩序だった組織内だったらどうでしょうか。
まず、筆の扱いの取り決めが社内でどうなっているのか、規則を調べるところからやらないといけません。
そして、申請書を提出する必要があることが分かり、よく分からないたくさんの項目を埋めた後、さらに上司から承認をもらう必要もあるでしょう。
提出してもそこからさらに稟議に回されて、その回答が返ってくるまで数営業日待つことになるでしょう。
なんだったら社内に審査部門があって、筆の導入審査まで行われるかもしれません。
そして、無事承認された後も、備品登録申請やら立替申請やら、いろんな手続きを経て、やっと新しい筆が自分の手元にきます。
業務上絶対にする必要のあることなら百歩譲っていいとしても、少し新しいことを試してみたい、ぐらいのノリでここまで労力が必要だったとしたら、ほとんどの人は試すことを躊躇うでしょう。
人間、めんどくさいことは嫌なのです。
ルールは無条件に大事なもので前提としてとりあえずあった方が良い、というふわっとした思い込みが不文律としてみんなの中に刷り込まれていると思います。
しかし「めんどくさい」や「ダルい」という圧倒的なデメリットが、秩序やルールには存在するのです。
問題が発生する可能性があったとしても、ある程度は無秩序を許容しておかないと、秩序により発生する怠さによって人々の活動意欲が削がれます。
ボールを投げたい人間にボールを蹴ることしか許されないルールを押し付けても、ボールを扱うこと自体をやめるだけです。
少子化も社会が秩序化し過ぎて、「めんどくさい」や「ダルい」が積み重なった結果だと思っています。
戦後だったり発展途上国や紛争地域のようにカオスってる方が出生率は高いのです。
少し話が違うかもしれませんが、田中角栄待望論みたいなのもこれと同じパターンです。
政治家に秩序を求めすぎた結果として、そういう豪胆な人はそもそも政治家など目指さなくなり、稀代の政治家たりえる人物は待てど暮らせども一向に現れないのです。
人望もカリスマも実行力もあるなら、自由の少ない政治家よりもワンマン社長になって好き放題やってた方が人生を楽しめるはずです。
安定を継続させるなら秩序はとても大事ですが、さりとて、現状維持は衰退の始まりもまた然りです。
諸行は壊法ですから変化なきものは淘汰されます。
秩序だけを追い求め続けても、訪れるのはディストピア小説のような世界です。
ルールや取り決めをいくら積み上げても「めんどくさい」が勝てば、人は秩序を放棄するでしょう。
「呼吸をしてはいけない」と法律で決めたところで、そんなものは誰も守らないし守れないので、ただの絵に描いた餅にしかなりません。
禁酒法を作っても人々は隠れて酒を密造するようになるだけです。
このようにルールがあるだけでルールが守られるわけではありません。
ルールを守るという全員の実際の行動が、そのルールに存在価値を与えるのです。
逆に不文律であってもみんながそのように振る舞っていれば、そこに秩序は存在します。
ルールがあろうがなかろうが、その場の人間の行為だけが秩序に影響を与えます。
そして、人は自分に合った秩序の場を求めて集団を形成するのです。
ゆくゆくは、定められた秩序に適応できる人々だけが集まり、留まるようになるので、多様性もどんどん失われるでしょう。
そして秩序というコンパスがないと行動できない人間が量産され、より人々の行動は硬直化し、変化にも対応しづらくなるのです。
ですので、多少の無秩序(カオス)を受け入れないと、環境の変化に対応していくことはできません。
一番最初に話が戻りますが、成長して秩序だっていく組織とは逆に、その分、無秩序性が失われて変革や未来への投資への動きが取りにくくなる様がイノベーションのジレンマと被るのです。
ルールがあればあるほど色々とめんどくさくなるので「行動」の難易度が上がります。
しかし、自主性を発揮してもらうには可能な限り「行動」を起こしやすい環境を用意する必要があります。
そうなると、ルールや手順は少なければ少ない方がいいに決まっています。
規律やルールをてんこ盛りにしておきながら、革新性や自主性を求めるのは矛盾しています。
そもそもルールは自主性(自然権)を殺すために存在しています。
適切な管理運営のためには、問題を起こさないように行動力を削いでおかないといけないからです。
手を使ったらサッカーにならないように、行動を抑制するのがルールの本質です。
しかしながら、イノベーションを期待するなら行動力は最大限発揮できるようにしておかなければなりません。
本当はそういった二律背反を常に意識しながらルールや規律を考える必要があるのです。
ルールありきでしか物事を考えられなくなれば、例えば、スポーツが野球しかない世界だったら、野球のルールのアレンジはできても、サッカーやバスケなどの他の種目を創造することができなくなってしまいます。
しかし、ルールという前提を取っ払えば、いくらでも新しいスポーツを考案することが可能です。
適切に管理したいのであれば取り決めを増やせばいいですし、個性を発揮させたいだとか、人間の持つ能力を伸ばしたいのであれば取り決めは減らさなければいけません。
ただし、両方を同時に叶える銀の弾丸はなく、二兎を追う者は一兎をも得られないのです。
経験・知識・語彙は読解力のもと
経験の多さ、知っている言葉の多さは自身の共感力や表現力に影響を及ぼします。
いろんな経験と知識があればあるほど、そこから逆算して、他人の状況に想いを馳せることができます。
さらに、状況の詳細にも言及できるようになります。
苦しい経験、痛い経験、嬉しい経験、楽しい経験、そういった過去の自分の経験に照らし合わせて、他人の喜怒哀楽に共感を寄せることができます。
そして、経験が共感を生み、共感による繋がりを通じてまた新たな経験を生む、成長のフィードバックループが築かれます。
逆に、経験が乏しいと他人に対して共感を感じにくくなります。
成長のフィードバックループを築けず、まさに「服屋に着ていく服がない」状態になってしまいます。
まさにマタイ福音書に書いてある通りです。
富める者はさらに富み、モテる者はさらにモテます。
「経験がそんなに大事か?」と思う人もいるかもしれません。
しかし、あなたも経験の有無で人を区別(差別)しています。
人が人を評価する時、その人の経験の有無を測っています。
人を雇う時は当然として、自分が仲良くなったり、友達や恋人として付き合おうとする時でも、相手の持つ何かしらの経験が自分に響くからそうなるのです。
見た目や習慣、喋り方、無意識の日常動作も過去の経験がそうさせています。
どんな話を振っても「ふーん」「知らない」「それがなんなの?」しか反応のない人と仲良くなれるでしょうか?
40年間ずっと引き篭もりをしているなんの経験もないニートと好き好んで交友関係を持とうと思うでしょうか?
相手がよほどタイプの異性か石油王ではない限り仲良くなろうとは思いません。
経験が乏しいと相手の関心に引っ掛かる適切なフィードバックができないのです。
赤ちゃんは存在そのものが尊いのでみんな構いますが、中年が赤ちゃんと同じ反応しかしなかったら、向けられるのは軽蔑か殺意か、あるいは無視されるだけです。
経験は相手に合わせる相槌のバリエーションを担保してくれます。
経験の量は自分の中のフックの数に比例し、フックが多かれば多いほど互いのフックが引っかかる確率も上がり、人と人が結びつきやすくなるのです。
たまに意識高い系のおっさんが「ガンダムは教養として勉強しておくべき」と言うのも、これが理由です。
ガンダムフックを持っていればおっさんと意気投合しやすく、仲良くなればビジネスが発展する可能性があるからです。
ちなみに話を出しといてあれですが、私はガンダムが大嫌いなのでガンダムフックを利用することはありません。
それはさておき、これで経験が大事であることが分かったと思います。
それを踏まえると、経験が乏しい人は、人と結ばれづらいのです。
そして、経験は努力ではなく環境でほぼ決まるので、本人が頑張るにしても認識できない天井が存在します。
日本で生まれ育った人間が日本人との交友関係が多くて、アラブ系の人との交友関係が少ないのは努力の問題ではなく環境の問題です。
経験は大事であると同時に「かけがえのない日常」と同じく、その価値も認識しづらいのです。
ここまで散々経験の大事さを語ってきましたが、経験が得られてなくても、擬似的に経験を得る方法があります。
それは「知識」です。
義務教育は、ある一定の共通の知識をあまねく子供に詰め込むことで、人それぞれの生まれや育ちによる経験の格差を最低限カバーするために存在しているといっても過言ではありません。
知識とは、いわば他人の経験の借用です。
冷静に考えてみてください。
われわれの持つ情報のほとんどは他人の記録から摂取したものです。
自分個人で体験して得えきた情報は一握りだけです。
現職の総理の存在も、ガザの空爆も、過去の戦争も、大谷の活躍も、水がH2Oなのも、他人が記録した情報を間接的に参照しているだけで、自身の経験ではありません。
自分の頭の中にある情報のほとんどは他人の記録に過ぎないのです。
しかし、他人の記録を自身の知識として蓄えることによって、あたかも自分が経験してきたかのように振る舞う事ができます。
そして、その知識を構成する最大にして最重要な要素は「言葉」です。
今でこそ映像や動画を伝えるメディアが多数存在しますが、遠い昔の知識の伝達手段は口伝しかなく、一昔前までは絵と文字だけでした。
そして、動画が溢れる現代においても、コンテンツの核はやっぱり言葉にあります。
ニュースであれバラエティーであれ、大抵の動画は喋るか文字を使っています。
動画が溢れる昨今でも情報の中心は言葉なのです。
その言葉を操るために必要なのが語彙(ボキャブラリー)です。
世間一般では語彙力、つまり知っている言葉の数が多ければ多いほど良いとされています。
一般的には語彙力=表現力と認識されていると思います。
さらに、語彙力をコミュ力に結びつけて解説している人もいますが、私ははむしろそれらは別物であり、さらには仲違いの元だと考えています。
ただ、知っている言葉の数が多ければ多いほど表現の幅が広がることは確かでしょう。
しかし、語彙力が本当に力を発揮するのは表現する時ではなく、経験と同じく物事を解釈する時なのです。
「動物」より「犬」、「犬」より「キャバリアキングチャールズスパニエル」と、語彙を増やすごとに、より対象の分別と理解が進むのです。
少し前に、物事の理解は段階を踏んで順序よくしましょう、という話を書きました。
四則演算は当然大事ですし、大人になってもよく使うし、算数はもとより数学の基礎です。
四則演算はそれだけでも重要ですが、四則演算を履修することで、そこから先の様々な公式や物理演算、確率、統計、経理に至るまで様々な知識を身につける事ができます。
四則演算が分からなければお金の計算もできないし、時間や日付も扱えません。
このように、知識は知識単体として役立てるだけでなく、むしろ、その知識を土台にして新たな知識を身につけるために使う方が重要なのです。
さらにいろんな語彙を蓄えていると、一見なんの繋がりもないような物事でも頭の中でアウフヘーベンが起き、新たな発見や認識、知見を得る事ができます。
今までたくさんの文章を書いてこれたのも、それ相応のインプットをしてきたからです。
しかし、言葉をたくさん知っているだけで豊かな表現ができるわけではありません。
知っているだけでは表現を適切に行うことはできません。
知っていることと説明ができることは別です。
いわゆる「分かったつもり」と「分かった」は違うというやつです。
言語化に辿り着くためには思考をコンパイルする必要があります。
その作業に必要なのが読解力です。
物事の概念を自分の中の経験と言葉で噛み砕いて、適切に消化できて初めて、文章化のエネルギーに変換できるのです。
頭の中に言葉がいっぱいあるからといって、即、人に伝わる意味のある文章を紡げるわけではありません。
そもそも、自分が理解できていないことを他人に分かるように説明することはできません。(たまに見かける、すごくいいことを言ってそうな文章なのによく読むと実は何も言っていない文章は、言っている本人も明確な理解に辿りついてません)
「分かったつもり」はただの捕食であり、「分かった」で初めて消化吸収され自身の血肉になるのです。
「人に教えることが一番勉強になる」のと同じく、文章を書くことは文章そのものの価値だけではなく、文章を書く過程で自身の理解が深まることに価値があるのです。(ですのでほとんど誰にも読まれないブログであったとしても書いた文章に価値がないわけではありません)
経験・知識・語彙は表現力というよりかは読解力の源だったのです。
そして、読解して理解した後に表現力がついてくるのです。
また、語彙の多さは物事を適切な比喩に置き換える助けとしても機能し、より理解を深める事ができます。
そもそもなぜ今回この話を書こうと思ったのかというと、昔に途中まで読んで挫折してしまった古典を最近また読み直してみると、以前よりもスムーズに内容が頭に入ってくる体験をしたからです。
本来インプットは何かしらの結果を出すために行うものですが、実はインプットは更なるインプット先の拡大、効率化を助ける役割があるのです。
経験や語彙はただそれ単体の価値だけではなく、そこから雪だるま式に身につける事ができる経験や知識の踏み台としての価値の方が大きいのです。
Tag: 哲学