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Randomfulness

世の中は乱数に満ちている。

成功者の成功要因はほぼ運だし、失敗者の失敗要因もほぼ運である。

こう書くと「いやいや、成功したのはその人に素質があり、それ相応の努力をしたからだ」と反論される。

しかし、人の素質と努力できる才能は親ガチャで決まるし、頑張ってみようという動機の有無でさえ環境ガチャに左右される。

このあたりの話は可能性の可能性で少し前に書いた。

とはいえ我々は、成功には成功に対する因果を求めてしまうし、失敗には失敗に対する因果を求めてしまう。

人は結果に対して納得できる理由が不在であることに耐えられないからだ。

そして、因果を求めてしまうが故に、人間は色々な物事から相関を見出す。

さらに、発見した相関を因果関係として結びつけてしまう。

相関に関してはパッと見ですぐに分かる。

なんだったら掲題の本にも書いてあるが、完全なランダムからでも我々は相関や法則性を積極的に見出す。

しかし、因果となるとそう簡単に断定することはできない。

例えば成功者はみんな朝早起きだったとする。

この場合、朝早く起きられるから成功者になれた、とは言えない。

成功したが故に朝早く起きる必要があってみんな朝早起きになっただけなのかもしれない。

このように、早起きと成功に相関があったとしても、早く起きれるから成功したという因果関係を簡単に導き出すことはできない。

朝早く起きれるから成功した可能性もあるし、成功したから朝早く起きるようになった可能性もある。

いわゆる「卵が先か鶏が先か」である。

だから、ひとえに相関があるからといって因果関係として捉えるのは早計すぎる。

そして「成功者はみんな朝早起き」は帰納によって導かれた相関なのでブラックスワンが潜んでいる可能性がある。

ブラックスワンに出くわしてしまったら最後、因果はおろか相関までもが崩れ去る。

相関が相関でいられるのもブラックスワンが発見されていないある種の運がいるし、それが因果関係ともなるとより可能性が絞られることになる。

結果に対する因果の認識などその程度である。

数学や物理学以外の再現度が100%ではない学問には「想定の範囲外」があるし、仮に100%だとしても神様のいたずらである日突然、物理法則が乱れるかもしれない。

こういった科学の不確定要素については昔書いたのでここではあまり追及しない。

要は、この世の中は色々確定しているように見えて、意外と絶妙な運のバランスの上に成り立っているのだ。

そして、「運が良い」方は割と意識されるが「運が悪い」方は割と切り捨てられがちである。(だからブラックスワンという概念がみんなの心に刺さったのだろう)

不運はそれ自体がマイナスであり、さらにその事実が後々の自分の考えや行動にマイナスの影響を与えることもある。

ただ巡り合わせが良かっただけで運命を感じて結ばれるのと同じぐらいに、ちょっとしたすれ違いの積み重ねが人間関係を破壊している。

ノブリスオブリージュで書いた通り、持つものは正のフィードバックループを、持たざる者は負のフィードバックループを人生で回しがちだ。

些細な運不運だとしても、バタフライエフェクトにより最終的には決定的に運命を左右しているかもしれない。

一つ前のエントリで恒常的なやる気がいかに大事かを書いたが、不運はそのやる気を削ぐ。

不運単体でもマイナスなのに、そこからさらにデバフ効果が付与される。

逆に幸運はやる気をブーストし、より行動的になるので、幸運だけでなくバフ効果も付与する。

運不運はその瞬間だけでなく、その後の行動にも影響を与え続ける。

幸運と不運は当人の人生にレバレッジをかけて、そのリターンを増幅させる効果があるのだ。

運命の悪魔は不運を振りまくだけでは飽き足らず、その人の後のやる気や行動力までも奪い去ってしまう。

ただ「運が悪かった」だけで片付けられがちだが、不運はみんなの想像以上に殺傷力を持っている。

近代は医療やテクノロジー、ロジスティクスの発展で人が死ににくくなった。

その反面、家庭が貧乏とか生まれ持ち何かしらの障害を持っているだとかの先天的な不運を背負いながら人生を送る人の割合は増えた。

その人たちは不運から派生する悪影響を長い人生の中でずっと浴び続けるのだ。

機会の副作用で書いた通り、チャンスが与えられる事は良いことだけではない。

だから、世の中が豊かになったのにも関わらず、幸福ではなく生きづらさを感じる人の割合が増えているのだ。

さらに、運命の悪魔は長い時間をかけてあなたを罠に嵌めることもある。

短期的に運が良いように見せかけて長期的には不運に陥るようなことがそれだ。

往々にして初めてやる競馬やパチンコは勝ててしまうものだ。

自分も初めて買った馬券も初めて打ったパチンコでもプラス数千円の収支で勝った。

その瞬間だけを切り取れば当然「運がいい」となる。

しかし、勝利の味に酔いしれてギャンブル沼にハマっていくと、やればやるほど負けがこんでお金を失うようになる。

ギャンブルにハマらなければそもそもお金を失うことはなかったのだから、最初の運が良かったせいで結果的には運が悪かったことになってしまう。

宝くじの高額当選者の末路が不幸になりがちなのもこのパターンだ。

このように運の良し悪しには、個々の運の良し悪し以外にも、その結果から派生する様々な影響があり、世の中のランダムさに拍車をかけている。

運がいいとより運が良くなるし、運が悪いとより運が悪くなるかと思えば、運が良かったせいで逆に運が悪かったことになったりする。

よく成功者が「自分は運が良かっただけですよ」というのを耳にするたびに「こいつは自己認識力がしっかりしているな」と思うし、失敗した奴やダメな奴も堂々と「自分は運が悪かっただけ」と開き直ってもいいんじゃないかと密かに思っている。

Tags: , 社会

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Pumpedfulness

ときに実際の効能や科学的根拠、ロジックや合理よりも重要なものがあります。

それはテンションです。

いわゆる「アゲ」ってやつです。

他に多少のデメリットがあったとしても自分のテンションを上げることには価値があります。

それはなぜかというと、テンションの高さは行動力をブーストしてくれるからです。

じつは我々の日頃の行動は合理的というよりかはわりとテンション駆動なところがあります。

理屈では理解していても、いざ実践するとなると途端に億劫になりがちです。

例えば、運動が体に良い事は誰でも知っていますが、いざ運動しようと思ってもなかなか行動には移せませんし、習慣化となるとさらにハードルが高くなります。

なにかしらの実践や行動には前提知識が必要な場合が多いですが、知識があるからといって必ずしも行動に結びつくとは限りません。

むしろ知識は行動を抑圧します

実際の行動に必要なのは「やるぞ!」というテンション、勢いなどの、体の内から湧き出てくる気力のほうです。

ところで、プロ野球の中継を観ていると、わりと多くの選手がキラキラしたネックレスを身に着けているのが分かります。

外人助っ人選手がゴツめのゴールドチェーンを揺らしながら一塁に爆走するのを観ながら「あれどっちかといえば絶対邪魔やろ」と思っていました。

最近では陸上選手もゴールドのネックレスを着けているのをよく見かけます。

野球ならまだしも陸上競技では自身の身体を1グラムでも軽くしたほうが良いように思えますし、首元がチャラチャラしていたら走りの邪魔にしかならないようにも思えます。

しかし、近年、各種スポーツ選手がネックレスを着用している割合は増えてきている気がします。(もちろんサッカーとかルール上禁止されている競技もあります)

そこで、スポーツ選手がネックレスを着ける理由を軽く調べてみたところ、特にパフォーマンスが上がるなどの科学的な理由はなく、ファッション的なものだったり自分へのご褒美や自信をつけるために着けているようでした。

要は、気分を「アゲる」だけのためにネックレスを着けているのです。

プロスポーツ選手はその分野ではピラミッドの頂点に君臨する人たちです。

そのトップの中のトップの人たちが理屈を差し置いて自分の気分を優先しているのです。

理屈や一般人の評判からすれば、ネックレスは着けないほうが合理的です。

それでも、それなりの数の人が着用している現実からすれば、科学的な根拠や他人の評価よりも、自分のテンションをアゲるほうがパフォーマンスに好影響を及ぼしているのでしょう。

厳しいプロの世界で生きている人たちが実践していることなのですから、ひとえに「科学的根拠がないから無意味」と切り捨てるのはナンセンスです。

逆に考えれば、超一流のトップ層になると自分の気力を保つことにも神経を使っているのです。

そういったわけで、自分もランニング習慣において気分を上げるためにネックレスを着けています。(まぁなくても全然走り続けていると思いますが)

そしてもう一つ、より一般的なアゲアイテムとして腕時計があります。

自分も少し前までは携帯を覗けば正確な時間が分かるんだから、腕時計を着ける必要性なんてないと思って、一切腕時計を着けることなく社会人をやってきました。

しかし、数年前に上記までで書いてきた気づきを得たので、日常生活でもテンションを上げたいとの思いで、一念発起して機械式の高級腕時計を買いました。

そして実際に身に着けてみて、その価値を感じることができました。

機械式時計はいわば身に着けることができる男のロマンなのです。

一般的に、男は機械的なものにとても魅力を感じます。

ガンダムだったり鉄道だったり車だったり、男の人は何かしらの機械的なサムシングに興味を惹かれます。

ちなみにプログラミングも機械好きの延長にあると思っているので、プログラマーに向いているのも男性だと思っていますし、実際にプログラマーのほとんどは男性です。

腕時計に話を戻します。

機械式腕時計は電池ではなく、ゼンマイとカラクリだけで動いています。(電池で動いている腕時計はクオーツといいます)

小さな本体の中には歯車などの様々なパーツが複雑に組み上げられ、それらが一体となって時を刻んでいます。

自分の腕の上で、それだけ複雑な仕掛けが休むことなく動き続けている事実を感じること、またそれを自身が身にまとっていると思うと気分が上がってきます。

ひとえに腕時計といってもたくさんの高級ブランドが存在し、到底普通のサラリーマンには手が出せないような値段の商品がゴロゴロあります。

裏を返せば、お金持ちの人たちは自分のテンションを上げるためならばそれほどの値段をも惜しまないのです。

過去に知識と意思決定プログラマーにアルゴリズム脳はいらないプログラミングはスキルじゃなくて習慣で書いた通り、自分は知識よりも実践や行動に価値があると考えています。

その実践や行動に恒常バフがかかると考えれば、気分を上げることがいかに大事かが分かると思います。

ダイエットに対する情報をいくら仕入れたとしても、行動に移せなければデブのままなのですから。

Tag: 哲学

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問題を解くより作るヤツのほうが偉い

念の為にいちばん最初に書いておきますが、当エントリで言及している「問題を作る」とは、いわゆるトラブルメーカーだとかのみんなが困るような問題を引き起こすヤツのことではありません。

トラブルとしての問題ではなく、課題としての問題のお話です。

閑話休題。

ビジネスの世界ではソリューションという言葉をよく聞きます。

ソリューションとは課題解決のことです。

なら最初から日本語で言えよ、と思いますが大人の世界とはそういうものです。

この言葉に代表されるように、問題の解決はビジネスの核であり、普段の仕事においても重要な要素とされています。

顧客の課題を発見し、それを解決すればビジネスになる、といった話はよく聞きます。

問題の解決は偉いことであり、同時に素晴らしいことでもある事実に異論をはさむ人はあまりいないでしょう。

あらゆるメディアにおいて、悩める人々に解決策を提示するコンテンツは大量にあり、また人気があります。

テレビではクイズ番組が放送され、それを観ている視聴者は、問題を解いた自分の知能に優越感を覚え、さらに、おバカ回答者の頓珍漢な答えを聞いて、より優越感に浸っています。

一昔前に流行った脳トレもそうです。

あれも別に脳を鍛えているのではなくて、脳を鍛えてる感を味わって楽しんでいるだけです。

脳トレで脳が鍛えられた人をみたことがありません。(というか脳トレ自体にハマっている人をみたことがない)

そもそも脳が鍛えられるとはどういうことなのか?と、哲学的な疑問もわいてきますが、話が横にそれはじめてきたのでこの話は一旦やめます。

要は、他人に問題を解決してもらうのも嬉しいし、自分で問題を解くことにも快楽が存在するのです。

問題を解くことは素晴らしいし、そのこと自体に疑いはないでしょう。

しかし、問題を解くことよりも問題自体を定義するほうが、じつは重要だったり難しかったりするのです。

学校の勉強やテレビの影響で、我々は問題を解く行為だけに価値があると思い込まされています。

というか、問題を作る側の立場になって物事を考える機会をあまり与えられません。

問題立案から課題解決までのトータルの価値は、問題提起側が9割といっても過言ではありません。

昔働いていた会社の社長から「問題の8割は問題を見つけた時点で解決している。問題さえ分かればあとはそれを解決するだけでいいんだから」と教えてもらったことがあります。

その発言の意味を今ここで頑張って文章化しようとしているわけです。

さきほど少し書いたクイズ番組を例に説明しましょう。

クイズ番組において一番偉いのはクイズで正解を答えた人でしょうか?

ただ、何も考えずに番組を楽しんでいるだけならそうでしょう。

「黒柳さんは博識だなぁ」や「野々村真はバカだなぁ」と、それ以外のことについては考える必要はありません。

しかし、クイズ番組でいちばん重要なのはクイズの存在そのものです。

クイズがなければ博識が披露もされることもなければ、おバカキャラの珍回答を楽しむこともできません。

ひとえにクイズといっても、誰でも簡単に正解できても面白くないし、かといって誰も知らないような問題を出題してもシラケるだけです。

問題は問題でそれなりのクオリティーが求められるわけです。

そして、解答者はあくまでも演者サイドであり、クイズ作成側は制作者サイドなので、立場的に偉いのは制作者サイドになります。

制作者側は制作者側だけでコンテンツを完結させることができますが、演者側はあくまでも依頼が来ない限り需要はありません。

そういった意味では、問題を解くよりも作る人のほうが偉いのです。

テストや試験の問題でもそうです。

問題を作成する側はそれについてあらかじめ知識を持っていないと、そもそも問題を作ることができません。

解答が存在しない試験はないからです。

問題を解こうとする行為自体は、知識があろうがなかろうができますが、問題作成には前提知識が絶対にいるのです。

円の面積を求める公式を知らない人に円の面積を求める問題は作れません。

そういった意味でも、やはり問題を解くよりも作る人のほうが偉いのです。

ここで話を冒頭のソリューションに戻します。

ビジネスにおいて課題解決が大事だと書きました。

この課題解決でさえ、じつは「課題」そのものがとても重要となってきます。

なぜかというと、「課題」を「解決」しても、そもそも問題設定が間違っていれば、問題を解決したところで元の木阿弥だからです。

むしろ、解決のために費やした労力が無駄になったり、なんなら、何もしなかったときよりも状況が悪くなる場合も多々見受けられます。

韓国の少子化対策は、対策による成果よりも社会負担によるコストが上回った結果、人々がより子供を作り育てにくい状況(2000年の合計特殊出生率が1.48で2023年が0.72)になっています。

その結果、少子化はより加速しています。(日本も状況は似ていますし、少子化対策に予算を注ぎ込めば注ぎ込むほど経済が犠牲になり、出生率は下がり続ける)

そして、「課題」と「解決」の関係は会社と従業員の関係にも似ています。

会社はある意味、世の中の何かしらの課題を解消するために存在しています。

いわば、会社が世の中から問題を発見抽出して、従業員を雇ってその問題の解決に当たっているわけです。

従業員がいくら優秀でどれだけ頑張ろうと、会社が解決しようとしている問題が間違っていれば、その分、世間からの需要は希少となり、その結果、売上も下がり、会社が立ち行かなくなっていくでしょう。

もし、マクドナルドが顧客の健康を問題と捉えてしまったとしましょう。

その解答として、ヘルシーなサラダを主力商品にしてしまいました。

するとどうなるでしょう?

いくら宣伝を派手に打っても、クルー(店舗スタッフ)が頑張ったとしても売上は右肩下がりになるでしょう。

じつは、顧客アンケートの失敗事例でよく出される「サラダマック」という商品が20年前ぐらいにあって、マクドナルドのヘルシー路線は実際に失敗しています。

そしてその後「クォーターパウンダー」という肉の暴力で人気を回復させました。

マクドナルドが解決すべき問題は、顧客の健康ではなく消費者のジャンキーな欲求だったのです。

さらに、生存者バイアスの話で、よく出される例として航空機の被弾箇所の図とその対策の話があります。

帰還した航空機の被弾箇所の統計からいちばん狙われている部位を補強すれば航空機の装甲性能が上がる、と分析センターの研究者が進言しました。

しかし、撃墜された航空機のデータが統計に反映されていなかったので、実際は「帰還した航空機に空いた穴は、爆撃機が損傷を受けても安全に帰還できる場所を表していた」のです。

「機体のいちばん狙われる部位の防御性能」が問題であれば、最初の研究者の進言どおりに課題を解決すればよいだけです。

しかし、実際に求められているのは「航空機の撃墜を減らすにはどうすればよいか?」です。

航空機の帰還率を上げるには、帰還した航空機の被弾箇所の統計を「爆撃機が損傷を受けても安全に帰還できる部位」として評価し、被弾の少ない部位を補強すべきなのです。

マクドナルドと航空機の例で書いてきたように、問題設定を間違えてしまえば、それを解決したところで、なんの結果も得られないのです。

以上で解決することよりも問題そのもののほうがいかに大事かが分かっていただけたと思います。

そして、私の視点からみれば世間にあふれている問題のほとんどは、そもそも問題定義が間違っているように思えてなりません。

Tags: 仕事, 社会

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