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リテラシーの誤謬

今回は、リテラシーの有無だけが大事なのではなく、リテラシーそのものの価値を疑うことも大事、というお話です。

ITリテラシーやメディアリテラシーといった単語が世間ではよく使われています。

そもそもリテラシーとは「読解記述力」のことです。

読む力と書く力です。

さらに砕けて表現すると、理解する力と表現する力です。

ITは世間一般的な認知だと、コンピューターかインターネット周りの知識を指すので、ITリテラシーとは「コンピュータとインターネットについて知識があり活用できる」となります。

そして世間的には、ある特定分野における判断力の有無をあらわすために使われることが多いです。

そこを逆手に取って、リテラシーがない人を「情弱」や「リテ低」などと揶揄して使ったりしています。

さて、ここまではよく聞く当たり前の話です。

リテラシーの有無自体はよく話題に上がりますが、リテラシーそのものの真贋を気にする人は少ないと思うのです。

ある現象に対して理解と表現が出来たとしても、解釈をそもそも間違えていたら何にもなりません。

例えば、自分の学生時代は鎌倉幕府の誕生は「良い国つくろう鎌倉幕府」で1192年だと暗記していました。

テストでも「1192年」と書けば正解をもらえていました。

しかし、最近の教科書だと鎌倉幕府の成立は1185年と書いてあるそうです。

今、自分がテストを受けて「1192年」と回答すれば不正解になってしまいます。

さらにです。

この1185年ですら「確定」しているわけではないのです。

近い未来にまた別の有力な学説が登場し、違った年度に改定される可能性も十分にあります。

何をもってして鎌倉幕府が成立したと定義するか?という根本的な問題もはらんでおり、個人的には年数そのものには知識的価値は無いと思っています。

このように「知識」があって「回答」できたとしても、それが間違っていればなんの意味もないですし、そもそも、その知識に価値があるのかどうかも疑わしいのです。

ところで、いきなり話がガラッと変わりますがサンドウィッチマンの「カロリーゼロ理論」をご存知でしょうか。

柿の種ってね、食べても太らないんですよ。小っちゃいし。辛いからカロリーを自然と消費する。よってカロリーゼロ。

カロリーは中心に集まる性質がある為、ドーナツなどの中心が空洞の食べ物はカロリーゼロ。形もカロリーゼロを表してるから太らない。

カツカレーは、カレーのカロリーととんかつのカロリーが一緒になることで、カロリー同士がぶつかり合ってけんかするのでカロリーゼロ。

カロリーは熱に弱く、110℃以上に耐えられないから揚げ物はカロリーゼロ。

といった、いろんな食べ物をそれっぽい理屈をつけてカロリーをゼロにしてしまうネタです。

ちなみに自分が一番好きなネタは「新幹線の中で食べる駅弁は、カロリーが新幹線の速度についてこれないのでカロリーがゼロになる」です。

この「カロリーゼロ理論」は、ほぼ誰が聞いても明らかに「ネタ」だと分かるので、笑って受け流すことができます。

しかし、極稀にこの理論を真に受けて「何を食べてもほとんどカロリーゼロにできるじゃん!好きなもの食べ放題だ!」となって無限に飲食を繰り返し、取り返しのつかない状態になる人もいるかも知れません。

みんながカロリーゼロ理論をネタだと解釈できるのはリテラシーがあるおかげです。

しかし、カロリーに対するリテラシーがないと、カロリーゼロ理論自体がその人にとってのリテラシーとなってしまう危険があります。

カロリーゼロ理論ほど極端な理屈であればネタだと認識できて一蹴できますが、世の中の理論や法則と呼ばれるもののほとんどは、実はこのカロリーゼロ理論と同じくらい根拠薄弱であることが多いのです。

少し前に科学と宗教は親しい存在であると書きましたが、世の中にあふれている知識はみんなが思っているより不確定なのです。

リテラシーがあるといっても、その根拠がカロリーゼロ理論のような、現実とは違った知識に依っていれば砂上の楼閣となってしまいます。

「そういったトンデモ理論に騙されないためにリテラシーが必要なんじゃないか!」という意見を言いたい人もいると思います。

今まで散々書いてきたように学問や科学ですら今日と明日で常識が塗り替えられる可能性を秘めた世界なのに、いはんや巷にあふれる知識であればをや、です。

リテラシーの有無だけでなく「それがほんとに正しいか?」を常に問い続ける姿勢も必要なのです。

20年前であれば“<font color=‘red’>“と書いていればよかったですが、2020年の今、フォントタグを使ってしまうとリテラシーの有無を問われてしまいます。

Tag: 哲学

天才を殺す凶器

愛の反対は憎しみではなく、無関心です。

エリー・ウィーゼル


『天才を殺す凡人』では天才は凡人に理解できないから排斥される、という内容が書いてあったが、個人的には天才の殺され方には2パターンあると思っている。

上記の殺され方は、まだ殺害件数が少ないほうだと思う。

「理解できない」ということを理解できているのは、天才に対してまだ認識を持てている段階だ。

「理解できない」ことを理解できていない、いわゆる無知の知がもう一つの殺害パターンだ。

これが天才を殺す一番の凶器として機能していると思っている。

天才に対する無知の知を現実で起こることで表現するとどうなるか?それは「無関心」だ。

「無関心」こそ真に天才を殺す凶器である。

理解できないことによる排斥とか嫌いという感情以前に、そもそも認知自体されないつらさがある。

人は自分の理解の及ばないものに対して、それを認識すること自体ができない。

理解できないものは意識すらされない。

よってその人の中では存在すらしない。

例えばFGOというゲーム自体は好きなり嫌いなりの何かしらの感情を持って人々から「関心」を持たれる。

しかし、中で動いているCRIWAREに対して関心をもつ人はほとんどおらず、普通に遊んでいるだけの人が意識することはほぼない。

実際に動いて存在していても、それにみんなが関心を向けてくれるわけじゃない。

役に立っているからといって、利用者全員から評価されるわけじゃない。

関係性が間接的になればなるほど「無関心」になっていく。

そして、その無関心がゆくゆくは自分の生活を支えていた人たちを迫害していく。

「関心」を持つこと自体が一つの才能なのだ。

ちなみに、意識が高いことと関心の広さは比例しない。

前回書いたとおり、人が意識を持てるのは自分の認識内だけであり、そこから外れたものはそもそも関心を持たない。

いくら意識が高くても無知の知にアプローチすることはできない。

FGOをいくらやり込んだとしても、CRIWAREについての知見は一ミリも得られないのと同じように。

クリエイターやアーティスト系の人は「無関心」という凶器に一番傷つけられている人たちだと思う。

人気のあるアーティストでもアンチの存在による精神ダメージ(排斥)よりも、自分の表現に対する共感性の欠如(無関心)のほうがダメージがでかい気がする。

表面的な名声はたくさん得られるだろうが、自分の感性が鋭い分、そのほとんどが的外れであることも理解できるので、自身が得られるのは「理解できていないことに対する理解」となる。

それは自分が共感して欲しいところに共感してもらえない状態で、いってみれば能動的な無関心を常に浴び続けている状態と言える。

そして多くのアーティストは酒や薬に溺れて自滅していく…

Tag:

ドーナツホール

ドーナツの穴は穴じゃなくて実際は何もありません。

ドーナツという存在によって初めてドーナツの穴が生まれるのです。

ドーナツがなければそこには何もありません。

子供っぽい屁理屈で言えば空気があるだけです。

日本人の一般的なイメージとしてドーナツの穴はドーナツがドーナツとして認識されるための重要な要素です。

しかし、ドーナツをドーナツたらしめているドーナツの穴は、穴を穴だけ切り取ることができません。

ドーナツを食べればドーナツの穴も同時に無くなります。

このように、存在しないものが別の存在によって存在するようにみえることがあります。

「無知の知」も少し似たような構造をしています。

知識の大きさを円に例えて円の外側を無知の領域とします。

知識が増えて円が大きくなると、同時に円周の長さも増えます。

結果、無知の領域に対する接合点が増えて、知れば知るほど、自分がまだ知らないことに対する認知が増えていくという現象が起こります。

よく人が「完全に理解した」と言い出したと思ったら、次に「何も分からない」と言い出して、最後に「チョットデキル」と控えめに発言する現象が起こる原因がこれです。

ドーナツは真ん中が空洞ですが、無知の知の円だと外周円の外側がドーナツホールに該当します。

図1

ドーナツでも知識でも、何かが無いことは何かがあることによって初めて可視化されたり概念としても認知できるようになります。

こういった現象は、人間社会のあらゆるところに潜んでいます。

潜んでいるどころか、ドーナツにおけるドーナツの穴の部分こそがあらゆる物事の本質だと思うのです。

東京は世界的に見ても大都市ですが、その大都市の中心にあるのはなんでしょうか?

実は東京の中心には何もないのです。

ビルも建っていなければ電車も通っていません。

東京もドーナツのような都市構造になっていて、山手線も首都高も環状線上に走っています。

それは何故でしょうか?

それは東京の中心は皇居だからです。

突き詰めていえば東京の中心は天皇陛下が存在するだけの土地です。

そして当の天皇陛下は別に何かを生産しているわけでもなければ統治しているわけでもなく、日本の象徴として存在しているだけです。

社会活動の熱量として評価すれば、そこは「無」になります。

しかし、日本の本質は何かと問われれば、天皇陛下の存在そのものとなり、すなわちそれが国体となっています。

まさにドーナツホールのような構造になっています。

ちょっと話が大きくなりすぎたので、目線を身近なところに向けます。

我々庶民の一人ひとりのパーソナリティーについてもドーナツホールの構造が成り立ちます。

以前に個性は幻想という文章を書きましたが、個人の人格もドーナツの穴と同じで実際には存在しないのです。

普段、実際に接している人々とのやりとりで、その人たちが自分に対して「この人はこういう人だ」という認識をそれぞれ持つようになります。

相手によって自分のどこかしらの部分が噛じられて、その時の味がその人の印象になります。

そして、部分部分を味わったそれぞれの人の印象で「この人はこういう人だ」というふわっとした人格が形成されます。

その人格がその人のコアとして存在するかのように扱われます。

しかし、当の本人は状況や相手によって食べられる部分を変え続けているだけで「ホントの自分はこれだ!」という中心部分は空洞なのです。

周りも自分もドーナツの存在によりドーナツホールを認識しているに過ぎないのです。

図2

よく物事には本質があるように語られますが、実際のところ本質などないのです。

ペルソナを通して中の顔が存在すると思い込んでいるだけで、仮面がなくなれば全てなくなるのです。

「噓から出たまこと」と言いますが、そもそも嘘がないとまことは存在し得ないのです。

Tag: 哲学

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