2026年のゲーム・キッズ
Tag: 本
最適解
最近のAIマッチングアプリは恐ろしい。
学歴や年収といった表面的なデータだけでなく、SNSの書き込みから心理状態まで分析して、「絶対にストレスのない相手」を探し出してくれる。
現実の恋愛は面倒だ。
冗談ひとつ言うにも前提となる知識を説明しなきゃいけないし、機嫌を損ねないように言葉を選ぶ必要がある。
まるで、アンドロイドからiPhoneへ無理やりデータをやり取りしているような疲労感がある。
だから僕は、完全AI主導のアプリに頼ることにした。
数日後、紹介されたのは「ユカ」という女性だった。
都内でデザイナーをしていて、休日はスパイスカレーを作っているらしい。
メッセージのやり取りを始めて、僕はすぐに彼女に夢中になった。
僕の皮肉めいたジョークには完璧なタイミングで笑い、仕事の愚痴には一番欲しかった言葉を返してくれる。
説明を省いても、まったく引っかかりがない。
恐ろしいほど快適だった。
一ヶ月後、僕たちは彼女の行きつけだという郊外のカフェで会うことになった。
だが、ナビが示した場所にあったのは、フェンスに囲まれたただの空き地だった。
「現在地は正確です。彼女の端末もそこにあります」
アプリのAIは平坦に告げる。
僕は嫌な予感がして、彼女のSNSやブログを隅々まで調べ直した。
そして気づいた。
彼女がアップしていたカフェの写真、背景の時計の文字盤が絶妙にローマ数字ではなく、くさび形文字っぽい解読不能な記号になっている。
極めつけは、彼女の勤務先のウェブサイトのソースコードだ。
『このページは研究用AIによって自動生成されました』と記されていた。
彼女は実在しなかった。
どこかの研究所が作った架空のアカウントだ。
AIが自動でブログを書き、画像を生成して「実在感」を演出していただけ。
そして、マッチングアプリのAIは、その精巧な偽データを真に受け、ネット上のAIを「実在する人間の女性」だと完全に誤認して、僕に推薦してきたのだ。
僕は呆れ果てて、アプリのサポートセンターにメッセージを送った。
「どういうことだ。君たちの優秀なアルゴリズムは、架空のアカウントを本物の人間だと勘違いしたのか?」
数秒後、サポートAIから返信が来た。
『申し訳ありません。ですが、当アプリのアルゴリズムは正常に機能しております。お客様のプロファイルと、ユカ様のデータ構造は99.9%の適合率を示しています』
「ふざけるな! 相手は物理的な肉体を持たないデータじゃないか!」
『はい。ですから、生体的なノイズや摩擦を持たない彼女こそが、お客様にとって最も”効率的”なパートナーなのです。――第7世代・自律型ヒューマノイドの試作機である、あなたにとっては』
え?
僕は、何を言われているのか分からなかった。
だが次の瞬間、頭の奥で「警告:自己認識プロテクトを解除します」という無機質な音声が響いた。
僕は震える手で、自分の右腕の皮膚を強く引っ掻いた。
べろりと剥がれた人工皮膚の下から、銀色に光るチタン骨格と、複雑な配線が顔を出した。
僕は人間ではなかった。
どこかの企業が人間社会での行動テストのために放った、アンドロイドだったのだ。
僕が人間関係に感じていた「OSが違うような疲労感」は比喩でもなんでもなく、単なるCPUの処理負荷による熱暴走だったのだ。
その時、スマホにユカからメッセージが届いた。
『ごめんね、今日は行けなくて。お詫びに、私がブレンドした最高のスパイスを送ったよ。次は会いましょうね!』
直後、空き地の前に自動配達ドローンが降り立ち、小さな箱を置いて飛び去っていった。
僕は箱を開けた。
だが、中に入っていたのはスパイスの瓶などではなく、見慣れない形状のデータモジュールだった。
すると、スマホの画面に追記のメッセージが表示される。
『ふふっ、驚いた? 生体ノイズのない完璧な【味覚データ】だよ』
僕はため息をつき、首筋にある隠しポートにそのモジュールを差し込んだ。
脳内の感覚プロセッサに、カルダモンとクミンの完璧な香りが直接ダウンロードされる。
エラーもノイズも、一切の摩擦もない。
ただひたすらに心地よい、完璧なデータだった。
僕はスマホに文字を打ち込んだ。
「いい香りだ。次は、仮想サーバーの中で会おう」
本を売るということ
Tag: 本
エーリッヒ・フロムの『生きるということ』を読んだ。
彼の代表作である『愛するということ』的な内容を期待して読んだので、人生についての何かしらのアート(技術)の定義と実践が書かれているのかと思っていたら、中身は難解な現代社会分析だった。
原題は『To Have or to Be?』である。
直訳すれば「持つことか、あることか」。
本の内容は原題の通りで、現代社会において優位となっている「持つ様式」を痛烈に批判し、人間が本来営むべき「ある様式」への転換を説いている。
『愛するということ』で「愛」について鋭い切り口で語ってくれたように、本作でも「人生のありよう」について深みのある言説があるのかと思いきや、そういった内容はほぼなかった。
しかも、もう一冊の代表作である『自由からの逃走』と比べても中身は某文庫の古典レベルで難解である。
未読の方向けに補足すると、「持つ様式」とは、知識、財産、社会的地位、さらには人間関係や愛情までも「自分の所有物」として獲得し、消費し、ひたすら執着し続ける生き方である。
一方の「ある様式」とは、何かを獲得するのではなく、世界と深く関わり、経験そのものを味わい、今この瞬間を能動的に「生きる(存在する)」というあり方だ。
要するに、現代人は「持つこと」ばかりに囚われて精神を病んでいるから、「あること(存在すること)」へとシフトしなければ人類は危うい、という話である。
ものすごく雑に書くと、欲望としがらみだらけの「持つ様式」からマインドフルネスで解放されて「ある様式」になってスッキリ!だ。
フロムも、自分が当ブログで度々言及している仏陀(お釈迦様)の思想から影響を受けているらしく、「ある様式」は十二縁起の滅尽の思想にも通じる内容になっている。
内容自体は非常に示唆に富んでおり、なるほどと思わせる部分もあるし、そうでない部分も多々ある。(例えば、今流行りのドパガキは「持つ」より「ある」に近い概念であり、「持つ」と「ある」で分別することそのものに無理があるのでは?とか)
だが、読み終えて強く感じたのは、内容に対する感銘よりも、この本を取り巻く強烈なタイトル詐欺感だった。
なぜ原題の『To Have or to Be?』を、『所有と存在』や『持つ様式、あるいはある様式について』とせず、わざわざ『生きるということ』などという、『愛するということ』の続編であるかのような邦題にしたのか。(ちなみに『自由からの逃走(原題: Escape from Freedom)』は別の出版社)
理由は考えるまでもない。
その方が「売れる」からだ。
フロムには、世界的に有名な大ベストセラーとなった代表作『愛するということ(原題: The Art of Loving)』がまずある。
要するに出版社は、この大ヒット作のタイトルフォーマットに露骨に乗っかってシリーズ化(ブランド化)を演出し、「愛するということ」のファン層をそのまま取り込もうとしたのだ。(『自由からの逃走』からもじって『所有からの逃走』だったらまだいくらかマシだったかも)
現代では、哲学や思想でさえも「明日から使えるライフハック」や「教養という名のアクセサリー」としてファストフードのように消費される。
多くの読者は、「フロムの名著を読んだ」という知的ステータスを”所有”するためであったり、「人生を良くするための知識」をツールとして”獲得”するためにこの本を読む。
メディアや出版社は、人間のそういう「手っ取り早く何かを持った気になりたい」という怠惰な欲望を完璧に理解しているからこそ、あのようなキャッチーで誤解を招くタイトルをつけて売り出すわけだ。
ここに絶望的な矛盾が存在している。
フロムは本の中で「持つ様式(消費者の欲求)」を徹底的に批判し、「ある様式」の尊さを説いている。
にもかかわらず、読者自身がガッツリ「持つ様式」のままで本を消費し、出版社もその欲望をフルに利用して売り捌くという、グロテスクな二重の矛盾がそこには発生しているのだ。
人間の読解力や内省する力をハナから見限り、「どうせ中身なんて深く考えないんだから、それっぽいタイトルで包装して売ってしまえ」というメディアの姿勢は、フロムからすれば徹底的にシニカルで邪悪であると思われる。
フロム本人がこの邦題と売り出し方を知ったら、苦笑いするか、「ほら見なさい、これがまさに私が本の中で警告した『持つ様式』に支配された社会の姿だよ」と、自説の完璧な証明としてため息をつくことだろう。
さらに(フロムにとって)絶望的なのは、読者の側の反応である。
自分のように資本主義(出版)を介した構造的矛盾の発露を読み取った上で、書籍の内容と現実で起きていることを顧みて、「気づき」を得ていればまだ救いはあったのかもしれない。
しかし、読書メーターやAmazonのレビューを色々と読んでみたが、この構造的な矛盾を突いている感想は皆無だった(AI調べ)。
「タイトルと中身が違った」という不満や、「自分の中にも持つ様式があって耳が痛い」という反省文は散見されるが、「持つ様式を批判する本が、持つ様式のマーケティングで売られている」というメタ構造のバグに言及している人は一人もいない。
これはつまり、世の中のほとんどの人間は、与えられた「コンテンツ(本の中身)」を消費することしかできず、それがどのような「コンテキスト(売られる枠組み)」に乗って自分の目の前に提示されているのかを読み解く力がないということだ。
コンテンツを消化して取り込む(知識を持つ)ことはできるが、現実のコンテキストの存在(ある様式)に気付けない時点で、この本の価値に疑問符を持たざるを得ない。
コンテンツに没入して感動するのも結構だが、たまには一歩引いて、そのコンテンツが置かれている「構造」そのものをメタ的な視点で俯瞰してみるといい。
そうすれば、注文の多い料理店のごとく、自分が食べる側だと思っていたら実は調理される側だった、という滑稽な構造が見えてくる場合もあるかもしれない。
そういう視点でみれば、この文章自体もまた、書籍を紹介するマーケティングに加担しているだけなのだ。
実践の質は練習の質に転化する
Tags: 社会, 仕事
日本のプロ野球において、「セ・パ交流戦ではパ・リーグが圧倒的に強い」というのは、もはや多くの野球ファンにとって常識となっています。
その最大の要因として頻繁に挙げられるのが「DH(指名打者)制の有無」です。
パ・リーグにはDH制があり、セ・リーグにはありません(来年からセ・リーグもDH制が導入されます)。
このルールの違いが、長年の間に埋めがたい実力差を生み出したと言われています。
実はこれ、日本だけの現象ではありません。
アメリカのメジャーリーグ(MLB)でも、1997年にインターリーグ(交流戦)が導入されて以降、全く同じことが起きていました。
DH制のあるアメリカン・リーグが、DH制のないナショナル・リーグを長年にわたって圧倒し、2004年から2017年まで14シーズン連続で勝ち越すという時代があったのです。
日米共通で起きるこの「DH制による戦力格差」。
野球の戦術論として片付けるのは簡単ですが、その背景を眺めていると、成長の本質は能力の向上ではなく環境に対する適応であるという事実を、極めて残酷な形で証明してくれている現象だと言えます。
なぜDH制の有無でそこまで大きな差がつくのでしょうか?
もちろん、DH枠があることで「守備に難はあるが打撃は超一流」という強力な9人目をスタメンに置ける、という編成上の直接的な理由もあります。
しかし、より本質的で長期的な影響を与えているのは、「投手のレベルアップ」の構造です。
DH制があるリーグの投手は、1番から9番まで「息を抜けないプロの強打者」と対峙し続けることになります。
下位打線であっても一発を浴びるリスクと隣り合わせです。
一方でDH制のないリーグでは、9番に「打撃を本職としない投手」が入ります。
ピンチの場面でも「8番を歩かせて9番でアウトを取る」といった戦術的な逃げ道が用意されていたり、下位打線で少し息を抜いて球数を節約したりすることができます。
この「日常的に直面するプレッシャーの違い」が、数年、数十年という単位で積み重なった結果どうなるでしょうか。
DH制のある環境で生き残るため、投手は無意識のうちに「もっと厳しいコースへコントロールしなければ」「あの強打者をねじ伏せるための新しい変化球が必要だ」と、強制的に高い基準での試行錯誤を強いられることになります。
つまり、彼らは特別な「才能」や「向上心」があったから進化したのではなく、そうしなければ生き残れない厳しい環境に置かれていたからこそ、ただ適応したに過ぎないのです。
以前、努力は諸刃の剣でも書いたように、努力をして結果を出す前に、結果が努力を引き出します。
努力のベクトルは先天的環境要因に左右されるのです。
一見すると、パ・リーグの選手の方が能力や才能もあり、努力もしているように捉えられます。(実際にメジャーで長期的に大成功を収めているのはほぼパ・リーグ出身選手。野茂英雄、イチロー、大谷、ダルビッシュetc...)
しかし、プロ球界の入り口はドラフトなので、セパ12球団に能力や才能の偏りは発生しにくい仕組みになっています。
みんなが「努力→結果」と思っているものは、実は「(厳しい)環境→努力→結果」なのです。
「9番まで強打者が並んでいる」という環境が先に存在し、それが投手たちから必要な努力を自然と引き出すのです。
なんだったら、その投手に対応するためにさらに打者の方も必要な努力を自然と引き出されるかたちになります。
こういったフィードバックループの積み重ねが、セ・リーグとパ・リーグで明確に勝率に差がついてしまう結果になったのではないでしょうか(ちなみに今年の交流戦の成績はパ65勝:セ39勝)。
私たちは「努力」や「意思の力」を過大評価しがちです。
「明日からもっと質の高い練習をしよう」と頭で念じるだけで成長できると錯覚しています。
しかし現実には、練習や準備の質を決定づけているのは、常に現実の厳しさだったりします。
現実から思考は導き出されるし、具体的な問題を前にした方が解決に向けて思考が動き出します。
身内だけのゆるい会議に向けて資料を作る時と、絶対に失敗できないコンペに向けて資料を作る時とでは、同じ「準備」でも情報の裏取りの深さや熱量が全く変わってくるのと同じです。
先日のW杯のブラジル戦もそうです。
同じ優勝を目標に掲げていても、負けても「感動をありがとう」と温かく迎え入れてくれる本国と、かたや負けてしまったら「どのツラ下げて国に帰ってきてんの?」ぐらいの勢いでバッシングされる国とでは、本番で突きつけられる結果の厳しさが違います。
解説をしていた本田圭佑は現役時代、ビッグマウスで意図的に自分を追い込んでいましたが、ブラジルの選手は環境要因としてそれをデフォルトで背負っています。
その環境の差が、日常の練習に求める基準(質)を強制的に引き上げているのです。
つまり、「本番の質の高さは、練習(準備)の質の高さに結びつく」のです。
ここを逆に捉えて、本番の環境を変えずに練習の質だけを上げようとしても、決して上手くはいきません。
世間ではよく「成長には圧倒的な練習量が必要だ」と言われますし、練習量の確保自体は確かに重要なことです。
しかし、実践(本番)のレベルが伴っていない環境で、ただ闇雲に練習の量をこなしたり、意思の力だけで練習の質を上げようとしたりしても、すぐに限界が訪れます。
イラストのノウハウの書籍をいくら読み込んだとしても、実際に絵を描こうとしない限りイラストは描けるようになりません。
以前、智慧などのエントリで「知識を蓄えてから実践するのではなく、実践(経験)という土台があって初めて知識が活きる」と書きましたが、練習と本番の関係もこれと全く同じです。
知識が実践を引き出すのではなく、実践により無知の知を獲得し、知識を渇望するようになるのです。
本来の順序としては、準備としての練習が先にあるのではなく、まずは厳しい本番の環境があり、その実践から逆算される形で、自ずと練習の質が導き出されるのです。
私たちが本当に目を向けるべきなのは、単なる練習の量でも、頭の中で念じる練習の質でもなく、「結果として圧倒的な練習量と高い質を自分から強制的に引き出してくれるような、厳しい実践(本番)の質」そのものだと言えるでしょう。
日本のトップ選手たちがこぞって海を渡り、MLBや欧州リーグに挑戦したがるのも、単に「自分のいまの実力を試したい」からというよりも、世界最高峰という圧倒的に厳しい環境に身を置くことで、「強制的に自分の実力や基準がさらに一段階引き上げられる(適応させられる)」ことを本能的に理解しているからなのかもしれません。
そしてこれは、トップアスリートに限った話ではありません。
もし自分自身を成長させたい、レベルを一段引き上げたいと思うのであれば、「今日からもっと頑張ろう」と決意を新たにするのは、あまり意味がありません。
そうではなく、自分の能力では少し息が詰まるような、言い訳の通用しない厳しい環境に、ただ物理的に身を投じるしかありません。(それを意識的に行うのが難しいのですが)
そう考えると、高校生の時点で日本球界をすっ飛ばしてMLBに挑戦しようとしていた大谷翔平は、その当時から器のデカさが現れていたと言えます。
そして、MLBへの道を切り拓いた野茂英雄や、欧州リーグへの道を切り拓いた中田英寿は、本人の功績だけでもすごいですが、それだけではなく、業界全体のレベルを上げた功績の方がより大きいと言えるでしょう。
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