気持ちの持たされよう
「気持ちの持ちよう」この言葉、何かつらいことがあったとき、落ち込んでいるときに、決まって誰かしらが言うやつです。
しかし、この言葉は絵に描いた餅と同じく、言葉にはなっているが実践となるとそうは問屋が卸しません。
じつは、気持ちとは「持つ」のではなく「持たされる」ものだからです。
朝起きて「今日は気分よく過ごそう」と思っても、満員電車で押し潰されたらイライラするし、上司に理不尽に怒られたら落ち込みます。
それでいて、好きな人からLINEが来たらやっぱり嬉しくなるものです。
つまり、気持ちは外部からの入力に対する反応なだけであって、自分の内側から湧き上がってくるものではないのです。
職場の環境が良ければ、何もしなくても気分よく働けます。
逆に、パワハラ上司がいる職場では、どんなにポジティブシンキングを心がけても、結局は嫌な気持ちになります。
ところで、プロ野球の投手には先発、中継ぎ(リリーバー/セットアッパー)、抑え(クローザー)という役割分担があります。
その中でクローザーは基本的にチームに一人だけが担える、ある種特別なポジションになっています。
先発は打ち込まれない限りは最低でも5回(1試合9回)ぐらいまでは投げますし、リリーフもクローザーも投げる投球回はだいたい1回だけです。
先発ほど長く投げるわけでもなく、他のリリーフと投げる頻度は同じぐらいであるにも関わらず、クローザーはチーム内で一番いい球を投げる投手が担うことが多いです。
先発より投げるわけでもない、他のリリーバーと投げる量も同じなのに、なぜクローザーは別格なのか?
それは試合の展開的に一番責任がかかってくる場面で投げるからです。
先発は初回に1、2点取られてもそれなりの投球回を投げきれば「お前のせいで負けた」とはなりません。
途中から投げるリリーバーも失点すれば「お前のせいで負けた」となる可能性はありますが、まだ後ろに攻撃のチャンスは残っているので、失点が決定的になるわけではありません。
しかし、クローザーは試合が終わる9回に投げます。
ここで抑えれば勝ちですし、抑えられなければ負けます。(もしくは延長戦になる)
仮に、味方が1点だけしか取っておらず、先発の後の中継ぎも3人ぐらい投げて8回までなんとか0点に抑えてきた状況がきたとしましょう。
そして、最後の9回にクローザーが登場します。
もしここで逆転されてしまったら、先発の頑張りも中継ぎの頑張りも全てが水の泡となります。
9回中8回がよくても、最後の1回がダメだったら全部ダメになります。
こういった試合構造になっているため、クローザーは特別なポジションとされており、その役割にはそれ相応の実力のあるピッチャーが担当することになります。
このように投げる場面によってピッチャーにかかるプレッシャーや責任が変わってくるのです。
そこを「気持ちの問題」としてクローザーに「もっと軽い気持ちで投げればいいじゃん」とか、先発に「1点でも取られたら負けると思え(対戦投手によってたまにあったりする)」と言ってみたところで、投手の気持ちが変わるでしょうか。
クローザーは点を取られて負けてしまえば8回までの他の選手の頑張りがすべて水の泡になる現実は変わらず、そこを打たれた本人が「まぁこういう日もあるさ」なんて言おうものなら周りから袋叩きにされてしまいます。
先発が初回に1点取られても、あと8回も攻撃チャンスがあるわけですから、そうなったらやっぱり「頑張って逆転してくれ」と願わずにはいられないでしょう。
つまり、投手の気持ちは試合状況という「環境」によって決まるのです。
野球に限らず、これは日常生活でも同じことです。
ですので、「気持ちの持ちよう」ではなく「気持ちの持たされよう」と考えるべきなのです。
社会があなたに不安を持たせる。
ニュースがあなたに恐怖を持たせる。
SNSがあなたに嫉妬を持たせる。
恋人があなたに幸せを持たせる。
こう考えた方が自然ですし、気持ちの持ちようでどうにかなるなら精神病など存在しません。
嫌な気持ちになったら、気持ちの持ち方を変えるのではなく、その原因となる環境や人間関係を特定して、改善を試みる方が正解なのです。
「他人は変えられないが、自分は変えられる」で変えられるのは気持ちではなく行動です。
コントロールが可能なのは気持ちではなく環境の方です。
ただし、すべての環境を変えることはできません。
しかし、どの環境に身を置くかは選択できます。
嫌な上司がいる部署から異動願いを出す。
ネガティブなニュースを見る時間を減らす。
愚痴ばかり言う友人との付き合いを控える。
応援してくれる人との時間を増やす。
これらは全部、自分でコントロールできることです。
「気持ちの持ちよう」という言葉は、個人の努力や精神力に問題を帰着させる、ある種の思考停止です。
しかし、「気持ちの持たされよう」と考えることで、環境の改善という具体的な解決策が見えてきます。
気持ちは自分で持つものではなく環境に持たされるものだったのです。
だからこそ、私は個性は環境ガチャの結果だと思っています。
さらに、先ほどの話を即否定することになってしまいますが、私たちは環境ガチャを自分で回しているつもりでも、実際には、そのガチャ自体が神の見えざる手によって、私たちの知らないところで勝手に回されているだけなのです。
Tag: 哲学
カトリックな中小企業とプロテスタントな大企業
働き方に対してのノウハウはこの世に腐るほどあるが、世界中の全ての会社や組織に通用する万能的なノウハウは現実として存在しない。
何かビジネスハウツーを一般化していい感じに理論化したところで、それが通用するかもしれないのは実は一部だけで、大半は砂上の楼閣になる。
経済学や経営学や行動経済学が万能であるならドナルド・トランプがわざわざ関税戦争をふっかける事もなかった。
学問やハウツーは小乗的に一部のエリートは救うが、大乗的な衆生済度にはならない。
例えば「将来のために収入の1割は貯蓄にまわしましょう」と言ってみたところで、実際に実践できるのは一部の人だけである。
そもそも企業や会社は一つひとつ違っていて、国や地域により千差万別であり、それを十把一絡げに扱うのには無理がある。
しかし、そこで最近、一つ思い至ったことがある。
それは同業種でも中小企業と大企業とでは企業内倫理が根本的に違うということだ。
倫理観が根本的に違えば、当然中で働いている人たちの行動様式もまた変わってくる。
中小だと有能であったものが大企業だと無用の長物になったり、その逆もまた然りとなる。
比較的社員数が少ない企業であれば社長、経営陣と授業員は近い距離にあり、互いにやり取りをすることもあるし、お互いにどういうモノとナリの人間なのかを具体的に把握している。
社員数が十数人なのに、社長と話したこともなければ会ったこともない、なんてことはほぼあり得ないはずだ。
しかし、数千や数万単位の人員を抱える一大グループ化している企業の代表となってくるとそうもいかなくなる。
ユニクロの店舗スタッフのほとんどは柳井さんに会う事もないだろうし、ソフトバンクグループで働いている人もほとんどは孫正義さんをお目にかかる事もないだろうし、マイクロソフトに所属しているからといってビルゲイツとコンタクトできる人もほとんどいないだろう。
一人の人間が数千数万単位の人間を管理することはおろか、認知する事自体不可能である。
よって、必然的に組織がデカくなれば、その構造はピラミッド型になる。
コンウェイの法則ではないが、組織規模が変われば、そこで働く人たちの行動様式も変わってくるのである。
会社が小さければ小さいほど会社全体を把握できるが、それがどんどん大きくなるにつれて自分で観測できる範囲が狭まってくる。
携わる業務内容も携われる人も限定的になってくる。
そうなってくると、会社での行動指針が人中心から規範や社風中心にシフトしてくことになる。
プロジェクトや会社の規模が大きいと、煩わしい手続きや存在理由のよく分からない書類も増えてくるが、それを取り扱う人たちはそれ自体がどういった経緯で発生したものなのかは案外知らないし、その意味を追求することもあまりしない。
「規則(ルール)で決まってるから」という常套句で規範に則って淡々と仕事を進めていく様は、まさに行動様式が人中心から外れて、より大きい何かに置き換わっている証左である。
このように社長や経営者に直接アクセスできなくなる末端社員にまで統率を求めるなら、規範や社風などの共同幻想を使って個人個人のマインドに働きかけるしかない。
大人数を束ねて組織を運営するには個人の能力ではなく規範や社風の存在が必要となる。
ビルゲイツが末端のカスタマーサポートの個人に対して作業指示をすることはもちろんなく、そのカリスマ性で人心掌握をすることもほぼ不可能である。
人が中心であるうちは人間個人の能力やカリスマ性がそのまま仕事の質に直結する。
しかし、会社の規模が大きくなると、仕事を進めていく力学が個人の「点」から、人と人との関係の「線」や「面」に多次元化していく。
この力学の変化により個人に求められる資質も変化する。
いくら個人の実務能力が高くても規範やカルチャーに合わせることができないのであれば、一部の天才を除き、同じようにやっていくことは厳しくなるだろう。
小規模組織では朝に弱くても目をつむってくれるかもしれないが、大組織だとそうもいかない。
こういった具合に発生した、個人に求められる資質の変化は宗教における宗派の派生、すなわち分派に近いものがある。
仏教だってより多くの人へ思想が波及していったからこそ、小乗(上座部仏教)では収まらずに大乗として溢れて、全世界に広がっていった。
小乗から大乗に分派していなければ、そもそも日本に伝来する事もなかったかもしれない。
派生元が同じとはいえ小乗と大乗では、根本的な考え方が違う。
大乗ではあまねく衆生を救済しようとしているのに対し、小乗では己自身のみが解脱を目指すのである。
このように同じ宗教でも派閥が違えば、その行動様式も変容する。
ここまでの話を前提とした上で、中小企業と大企業はそれぞれカトリックとプロテスタントの違いに近いイデオロギーの相違があるようにみえる。
中小企業は人を中心とした行動様式であり、神や教皇を中心とした権威主義であるカトリックに近く、大企業は規範や社風を中心とした行動様式であり、信仰の中心を聖書に委ねているプロテスタントに近いものがある。
カトリックの総本山であるバチカン市国があるヨーロッパはサッカーやブランド品などクラフトマンシップを中心にしているイメージがある。
一方、プロテスタントの国であるアメリカ(大統領は聖書を片手に置いて就任を宣誓する)はルールや規範を厳密に定義し、上下関係も厳しく、規律を中心に動いている。
どちらも同じキリスト教ではあるが、先ほどの大乗と小乗の違いのように、宗派が違えば考えも行動も変わるのである。
そういった意味で中小のうちにプロテスタント的なイデオロギーを取り入れたり、大企業なのにカトリック的に振る舞うのには無理があるのかもしれない。(そういった組織と思想の不整合がイノベーションのジレンマとして表出する)
創業時の創業者は教祖的な立ち位置となり、カトリック的に組織を運営していく。
そこから、数千数万の人員を抱えるコングロマリットに至れた企業は、その過程でプロテスタントに改宗してしまうのだ。
逆に、その過程でルターやカルヴァンのような改革者や改革が発生しなければ大企業に至れないのだ。
松下幸之助や井深大、盛田昭夫がいた時代は彼らを中心に会社が栄えたが、彼らのいない現代でも、パナソニックやソニーは大企業として君臨し続けている。
大企業として存続し続けているということは創業者のカリスマ性ではなく、そこから派生して生み出された規範や社風が社内を律し続けているのだろう。
創業者が有能でもプロテスタントに改宗できな(かった)い企業は一代で途絶えるか中小企業として細々と生き続けることになる。
何か小難しい話を長々書いてきたが要は、同じ職種でも中小企業と大企業ではそもそも宗派が違うので、自分の思想に合う宗派の規模の会社を選びましょうね、という話である。
そして、ずっと同じ組織に所属していても、零細企業から大企業に成長してしまったのなら、その過程であなたは改宗を受け入れるか、自分の思想を保つために離脱するかの決断を強いられる時がくる。
自分の好きを仕事にしたところで職場の人間が全員異宗派なら仕事の前に音楽性の違いで疲弊し、長く続けることはできなくなるのだから。
作業者Xの献身
タイトルだけだとなんの話か分からないので、最初に書いておくと今回はantiタスク分解論の続きの話になります。
当該記事ではタスクを分割することで発生する弊害について書きました。
その時の要点が
- 全体を分割すると抜け落ちが発生する
- 分解されたタスクだけにしか目が向けられず全体を俯瞰できなくなる
の2点でした。
今回は、そこからさらに掘り下げて、タスク分割におけるデメリットを追加で紹介したいと思います。(「タスクを分割するな」とは言ってません)
まずは下図をご覧ください。
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作業者Xが一人で全てのタスクを担う場合と、作業者X、作業者Y、作業者Zの3人にタスクを分割した場合の図です。
そして、システムの単一障害点(single point of failure)が存在するとして、そこを赤い点で表しています。
右図だと作業者Zのタスク領域に単一障害点が存在することになります。
左図において作業者Xが一人でタスクをこなしている場合、単一障害点の発見も容易ですし、対応も(解決できる能力があれば)自分自身だけで完結できます。
しかし、タスクが分割されており担当者もそれぞれ別だと、障害点の究明と対応の難易度が高くなります。
まず、障害点の究明についてです。
自分一人で全域を網羅できていれば、問題を特定するのは(特定できる能力があれば)容易いです。
しかし、自分の範囲外に問題の原因があるとすれば、問題の特定は困難を極めます。
自分の家の中でどこに財布を置いたのか忘れるのと、旅先でいつの間にか財布を無くした場合の財布の生存率ぐらい違います。
作業が分担されている場合、自分の範囲内の問題なのか自分の範囲外の問題なのか、ここの切り分けにまず労力がかかります。(自分の範囲内の問題なのに他人のせいにしたり、自分の範囲外の問題なのに自分の範囲内だけで解決しようと時間を浪費したりしがちです)
そして、自分の範囲外に問題があると確信を得られれば、次は自分の範囲外のタスクについて情報を得る必要が出てきます。
ついで、自分の状況と他人のタスクのそれぞれの情報から障害点を推定する作業が発生します。
障害はどのタスクに依存していて、かつ、そのタスクの担当者は誰なのかも把握できないと、対応にあたることができません。
さらに、他人のタスクに関しては自分の守備範囲外ですから、その部分の情報に関しては自分の知見ではなく、既存のドキュメントや別の作業者から引き出した情報から推測するしかありません。
この場合、自分の作業から生み出される知見を頼ることはできず、編集された情報である他人からの伝聞を頼りにするしかありません。
人間、実際に自分でやった経験は有用な知見や技術として活かせますが、経験の伴わない情報は実務においてあまり頼りになりません。
自転車についていくら知識を得たところで、実際に乗れるようになるには乗るしかないのと同じように。
ただの伝聞でしかない知識より経験から得た知見の方が有用で、作業を分担するほど、個人個人の知見は縮小してしまいます。
そして、障害点の究明ができたとして、次は障害に対応しなければなりません。
自分の担当分に原因がなくても、単一障害点を除去しなければ自分のタスクを遂行できないのであれば問題を解決するしかありません。
タスクは分割できてもシステムは分割できないのです。(マイクロサービス?何それ?おいしいの?)
ですので、タスクを細切れにして対応範囲を限定的にしているのにも関わらず、自分のタスク外に問題の原因があれば、その部分についても追加で対応しなければなりません。
以前の記事の終わりにも書きましたが、工場のように完全な分業制になっていればそういった問題は起きません。
ベルトコンベアーで流れてくる刺身の上にタンポポを乗せる作業者は、刺身の具や量が違っていても、タンポポを乗せ続けるだけです。(もしくはただ弾くだけ)
商品の検品はまた別の工程としてちゃんと分割されているわけですから、タンポポの人が刺身の不良を気にする必要はありません。
ですが、組織に所属する会社員が知的労働として仕事に取り組んでいる場合、自分のタスクは何かしらの外的要因に依存しているはずです。
自分の作業が自分一人だけで1から100まで完遂できるのは、バイトのような単純作業か自営業で自分一人で切り盛りしている場合ぐらいです。
よって、大体のホワイトワーカーは、他人の担当範囲のタスクについて調整する作業が発生します。
そうなってくると、昔書いたタスク分割コストが牙を剥いてきます。
作業分担して効率よく終わらせるはずが、逆にコストがモリモリになって工数も時間もよりかかってしまうようになるのです。(最近はむしろ、大企業はコストをあえてモリモリにすることで達成感という餌を撒きながら人間を畜産している気がしないでもないです)
コンウェイの法則とマイクロサービスで書いた通り、サービスやシステムにとどまらず、タスクの分割一つとっても、その効率性は組織構造やその質に依存するのです。
数人のスタートアップでのタスク分担とグローバル大企業におけるタスク分担とでは、その質も内容も難易度も、なんならやりがいさえも全く別物となるでしょう。
作業者Xの献身が必要な時点で、その組織はイノベーションのジレンマに囚われているのです。
Tag: 仕事