かつて私は、ドキュメント is 説明の自動化というエントリを書きました。
同じ説明を何度も口頭で繰り返すコストをなくし、自分が不在でも現場が回るようにするドキュメント化こそが正義である、と。
自分の頭の中に情報を囲い込み、都度「分からないことは何でも聞いてね」と確認を強いてボトルネックを生むのに対し、情報をオープンな場所に書き出して誰でも非同期に参照できるようにするほうが圧倒的に効率的であるはずでした。
もちろん、単に文字として書き出すだけでなく、不要な情報を削ぎ落としたり適切に管理したりすることがなければ質の高いドキュメントにならないことは理解していました。
それでも、不正確さは他人の仕事を増やすのだから、暗黙知を言語化してドキュメントとして残す行為そのものは、善であると信じていたのです。
しかし先日、とあるプロジェクトで数十万文字にも及ぶ、極めて緻密に書き込まれた仕様書群を目の当たりにしたとき、私の頭の中にまったく逆の疑問が湧いてきました。
「これ、ドキュメントが丁寧すぎて、逆に何も伝わらなくなっていないか?」
そこに広がっていたのは、要件定義から概念設計、用語の定義、パッケージ構成、例外ケースの網羅に至るまで、隙なく書き込まれているように見える文字列の大海原でした。
いくら文章を読み進めていってもブラウザのスクロールバーは這うようにしか動きません。
書いた側からすれば、仕事としてのアウトプット量は十分なのかもしれません。
しかし、いざそれを前にして自分が手を動かそうとしたり、新しく参画した人が全体像を掴もうとしたりすると、途方もない疲労感に襲われます。
読むだけで数日を要し、仕様を一つ確認するために無数のページを行き来させられ、コードを一行書くたびに「仕様書のどの制約に引っかかるか」を照合しなければなりません。
情報の抜け漏れを防ぎ、誰が見ても誤解のないようにと正確さを突き詰めた結果、かえって人間には読まれなくなります。
「10分で読む名著」みたいなダイジェストは読まれますが、その原典はほとんどの人が読まないのと同じように。
なぜ、理解を助けるために書かれたはずのドキュメントが、かえって人間の理解を拒むものになってしまうのでしょうか。
その理由を掘り下げていくと、「言葉」という仕組みそのものが抱えるトレードオフに行き当たります。
言葉の正確性と伝達性は、トレードオフになっているのです。
言葉とは本来、グラデーションに満ちた現実を、限られた記号に丸め込む「非可逆圧縮」のツールです。
「これ、いい感じにしといて」「ヤバいバグが出た」といった言葉は、情報量として十数文字しかありません。
それでも一瞬で相手に通じるのは、お互いが現場の文脈(コンテキスト)や暗黙の了解という「復号キー」を共有しているからです。
あえて言葉の解像度や正確性を落とす代わりに、圧倒的な伝達スピードを手に入れているわけです。
そもそも、100パーセント正確で厳密な答えは、聞き手が話し手と同じくらいすべての詳細に精通していない限り、激しい認知の摩擦を引き起こします。
一方で、大まかに芯を捉えた比喩やメタファーは、少しのフィクションを導入するリスクと引き換えに、その摩擦を取り除いてくれます。
たとえば、おじいちゃんおばあちゃんに「インターネットって何?」と聞かれたとき、TCP/IPやパケット、ルーターやDNSの仕組みから説明し始めたら、相手はまず聞く気をなくします。
それよりも「世界中のコンピュータをつなぐ道路みたいなもので、そこを手紙や写真が小包になって運ばれていく」と言ったほうが、はるかに伝わります。
厳密には道路も小包も存在しませんし、データは細切れにされてバラバラの道を通ったりもしますが、聞き手が知りたいのはそこではないのです。
そうした適度な嘘や曖昧さというクッションを挟むことで、私たちは辛うじて他人とのやり取りを成立させているのです。
では逆に、そうした曖昧さを一切許さず、「誰が読んでも絶対に誤解が生じないようにしよう」とするとどうなるでしょうか。
相手が復号キーを持っている前提に頼れないので、復号キーそのものまで文字に起こして同梱しようとすることになります。
しかし、文字に起こしたその復号キーもまた「言葉」で書かれている以上、それを誤解なく読むための別の復号キーが必要になるという無限後退から逃れられません。
先ほどのインターネットの例でいえば、その仕組みを本気で正確に説明しようとすると、技術仕様をまとめたRFCという文書群だけでも9000を超える文書が存在し、途方もない文字数になります。
しかもRFCには、文中の「MUST」や「SHOULD」といった単語をどういう意味で使うのかを定義するためだけのRFC(RFC 2119)まで存在します。
そして当然、そのRFC 2119自体も英語という「言葉」で書かれているわけです。
そもそも「定義する(define)」という英単語が「終わらせる(finish)」と同じ語源(終わり・境界)を持っている通り、定義とは完全にはならない言葉を、とりあえずこのあたりで打ち止めにして仮決めしておく程度の意味しかありません。
だとすれば、流動的な文脈を一時的に凍結させるオントロジーは道具としては有用でも、それで実務を言葉で定義し尽くせると考えた時点で、発想が最初から破綻しているのだと思います。
たとえば業務の知識を整理しようとして、「手順」と「決まり」という二つのカテゴリに分けて定義したとしましょう。
一見すると綺麗に分類できているようですが、普通に考えれば「手順」は「決まり」の中の一つです。
現実はそうしたグラデーションと重なりの塊なのに、それを無理やり別々の箱に切り分けようとするから、「どこまでが手順で、どこからが決まりなのか」という不毛な境界線の定義や例外規定が雪だるま式に増え、文章は何十倍、何百倍にも膨れ上がります。
その極致が、六法全書の条文や、誰も読まないソフトウェアの利用規約です。
法的なトラブルを防ぐために正確性を突き詰めた結果、専門家ですら読むのが嫌になる長大な文章が出来上がります。
スッと頭に入ってくる伝達性は、そこにはほとんど残っていません。
しかも、書き尽くした側は「抜け漏れなく言語化した」という安心と免責を得られる一方で、膨大な記述を読み解いて照合する手間は、すべて読み手に回ってきます。
正確さの追求は、書き手の安心のために読み手の時間を差し出させる行為にもなり得るのです。
さらに皮肉なのは、そこまでして伝達性を犠牲にしたところで、肝心の「正確性」すら手に入らないということです。
ドキュメントの量が増えれば増えるほど、あちらのページで定義した前提とこちらのページで定めた制約が食い違ったり、細かく規定しようとしたせいでかえって「じゃあこの場合はどうなるのか」という未決事項が次々に噴出したりするようになります。
言葉で境界線を引くたびに、その境界線同士がどこかで重なり、矛盾が生まれます。
ルールAとルールBを両方守ろうとすると、両方は守れない場面が必ず出てきます。
六法全書ですら、条文だけで現実を矛盾なく定義し切ることはできないからこそ、裁判官や弁護士という「人間による解釈」が不可欠になっているわけです。
実際の裁判でも、条文だけでは白黒つけられない場面ばかりだからこそ、過去の具体的な判断の積み重ねである「判例」に頼ることになります。
しかも、そうして例外を埋めるために蓄積された判例もまた膨大な山となり、個別の状況や時代によって判例同士が食い違ったり、後から覆ったりするのです。
どれほど言葉を尽くしてルールや前例を書き足したところで、書き足すほど正確になるのではなく、矛盾の発生源が増えていくだけです。
正確性を求めて伝達性を差し出したのに、その正確性すら手に入っていない。
この構図は、前回書いた慣習法と成文法の話にもそのままつながります。
社会の日常(正常系)を動かしているのは、法律の条文ではなく、人々の間にある暗黙の了解や良識(慣習法)です。
成文法は、その阿吽の呼吸が破綻したときのための「例外処理」に過ぎません。
それなのに「ルールで縛らなければ信用できない」と例外処理を増設し続けた結果、社会は手続きの摩擦で身動きが取れなくなっていきます。
オーバードキュメンテーションは、システム開発における「過剰な成文法化」そのものです。
「誤解されたら困る」「例外が起きたら困る」と恐れるあまり、あらゆる前提やエッジケースをドキュメントという名のcatch節で埋め尽くしてしまう。
その結果、現場の常識や阿吽の呼吸で回っていたはずの正常系の開発が、例外規定の山に埋もれて人間には扱えないものになってしまうのです。
ドキュメントを書くのをやめて、すべてを口頭や個人の勘に頼ればいいのかというと、もちろんそうではありません。
言語化とは、現実のすべてを白黒はっきり塗り分けるのではなく、どこまでを言葉にして、どこからをグレーゾーンとして残すか、その境界線を引く作業なのだと思います。
では、その境界線をどこに引けばいいのか。
結局のところ、それは書き手のバランス感覚に委ねるしかありません。
そして、そのバランス感覚の正体は、「書き手が最初の読み手であり続けること」なのではないでしょうか。
自分で読み返す気にもならない量を、他人に読ませようとするのは無理があります。
レシピに「塩少々」と書いてあるのは手抜きではなく、料理人の舌と素材の状態に委ねるための余白です。
「塩化ナトリウムを0.85グラム投入せよ」と書かれたレシピは、一見正確でも、素材の個体差には対応できません。
もちろん、パンやお菓子作りならグラム単位で量ったほうがうまくいきます。
ただそれは、小麦粉や砂糖、ベーキングパウダーといった、規格化された化学物質に近い材料を扱っているからです。
個体差のある野菜や肉を相手にする料理では、その正確さは通用しません。
システム開発でも、実装する人の野生の思考が入り込む余地を残しておかないと、変化に弱いものになってしまいます。
ただ、AIの登場によって、そうした余白はますます残りにくくなっています。
AIに「この機能の仕様書を詳しく書いて」と頼めば、本来グレーゾーンとして残すべきところまで律儀に埋め尽くした、人間なら何日もかかる量のドキュメントが数分で大量に出てきます。
かつては「書くこと」自体に相応の労力が必要だったため、書き手の理解を超える量のドキュメントは物理的に生まれにくいというブレーキがありました。
しかし今は、自分自身の理解が追いついていなくても、AIを使えばもっともらしいアウトプットを一瞬で生み出せてしまいます。
出力のハードルが極端に下がった一方で、それを読み解く人間の脳の処理速度は昔から何も変わっていません。
その結果、人間が誰も全体を把握できないまま、AIが書いたものをAIだけが読み、AIだけが実装し、開発だけが進んでいってしまいます。
「人間が読めないならAIに読ませればいい」という声も聞こえてきそうです。
しかし、AIに読ませたところで、人間が最後に受け取るのは結局AIによる要約、つまり「10分で読む名著」のほうです。
正確さを突き詰めて書いたはずの原典は、誰にも読まれないまま非可逆圧縮されて人間に届くことになります。
さらにたちの悪いことに、仕事の成果というものは基本的に「目に見えるアウトプット」でしか測られないようになっています。
100ページのプレゼン資料や分厚い仕様書を作る作業には分かりやすく得点が入りますが、誰かが作ったその100ページを必死に読み込んで理解する作業には1点も入りません。
どれだけ時間をかけてインプットしたところで、そこからまた別の資料や指摘事項といった「何かしらのアウトプット」をひねり出さない限り、仕事をしたとは見なされないのです。
真面目に読んで理解しようとすればするほど評価から取り残され、認知を置き去りにしてでもAIでアウトプットを量産したほうが仕事をしたことになる。
そんな環境に置かれれば、誰もが「読む側」のババを引くのを避け、「出す側」に回ろうとするのは当然の帰結です。
こうして、お互いの理解を犠牲にしたまま成果物だけをぶつけ合う「アウトプットバトル」が繰り広げられ、誰にも読まれないドキュメントばかりがさらに積み上がっていくことになります。
かく言う私も、このブログでAIを使い始めてから1記事あたりの文字数が明らかに増えています。
そして、そうやって膨れ上がったこの文章自体が、すでにオーバードキュメンテーションになってしまっている気もします。
Tag: 社会
今年の6月、北中米W杯の熱狂の裏で、スポーツ配信サービスのDAZNが打ち出した「DAZN Soccer」のキャンペーンが大炎上したのを覚えているでしょうか。
「最初の3ヶ月は月額980円!」とデカデカとアピールしてW杯目当てのサッカーファンを誘い込みながら、その実態は「12ヶ月の年間契約(途中解約不可)」という条件を目立たないように記載していた、いわゆる典型的なダークパターンです。
大会期間だけ安く観てサクッと解約するつもりが、気づけば1年間の支払いに縛り付けられていたユーザーから怒りの声が殺到し、最終的には新規受付停止と返金対応にまで追い込まれました。
企業側の当初の算段としては「注意書きにはちゃんと書いてあるし、利用規約にも明記しているから法的には何ら問題ない」といったところだったのでしょう。
「法律に違反していなければ何をしてもいい」「規約の範囲内なのだから法的に問題ない」。
人の善意や先人が築き上げてきた慣習を無視し、ルールの穴を突いて利益を掠め取ろうとする人たちがたまに現れます。
そして彼らが炎上した際に口にするこの台詞を聞くたび、何とも言えない気持ちになるのは私だけではないはずです。
世間一般ではこういった態度を「モラルの欠如」だの「倫理観の崩壊」だのといった道徳的な言葉で批判します。
とはいえ、ほとんどの会社や社会人は程度の差こそあれ、無自覚に他人の気持ちよりも仕事の遂行を優先しているのではないでしょうか。
友人や親戚への保険の営業や、訪問販売の押し売り、ウォーターサーバーやネット回線の勧誘、カード会社からの保険加入の電話、家電量販店のスマホコーナーの過剰な人員配置などは、どちらかといえば邪魔です。
しかし、営業側からすれば契約を取るために必死になって仕事をしているだけなのです。
ダークパターンもその延長線上にあるだけで、やっている側はこちらが思っているほど悪意はないのかもしれません。
一昔前のソシャゲのガチャ規制の動きのように利益追求が過熱し社会問題化して初めて規制がかかるのです。
商売はそういったグレーゾーンのボーダーラインを攻め合う性質を孕んでいます。
ルールに「禁止」と書かれていなければ何をやってもいい、と境界線ギリギリを攻める姿勢は、「法律こそが社会を動かしている」という前提に立っています。
しかし、プログラミングのパラダイムを借りて言えば、法律は決してシステムの「ビジネスロジック」ではありません。
どちらかといえば、それは単なる例外処理に過ぎないのです。
プログラムに馴染みのない方のために簡単に説明しておくと、「ビジネスロジック」とは、そのシステムが本来達成したい主目的であり、日常的に触れる「正常系のルート」のことです。
例えば買い物サイトであれば、「商品をカートに入れる」「決済する」「在庫を減らして発送を手配する」という一連の当たり前の流れを指します。
これがなければシステム自体が存在意義を失ってしまう、いわばシステムの本体そのものです。
一方の「例外処理」とは、その正常な流れから外れた「異常事態」が起きたときのセーフティネットのことです。
「決済時にクレジットカードの限度額を超えていた」「在庫引当の瞬間に通信が途絶えた」といった予期せぬエラーが起きたとき、決済をキャンセルしたり、システムがクラッシュして画面が真っ白にならないように、「エラーメッセージを出して前の画面に戻す」といった後始末を行います。
例外処理とは、正常にシステムが動いている限りは、本来一度も実行されることのない裏方のコードなのです。
このメタファーを現実社会にマッピングしてみると、社会の解像度がぐっと上がります。
我々の社会における「ビジネスロジック」とは一体何でしょうか。
それは六法全書に並んでいる無味乾燥な条文などではなく、日々の暮らしの中で培われてきた暗黙の了解、道徳、コモンセンス、すなわち「慣習法」です。
出社して同僚に挨拶をし、コンビニで商品を受け取って代金を払い、駅のホームでは列に並んで電車を待つ。
あるいは、相手に迷惑をかけたら自らの非を認めて謝罪する。
これらは人間社会というシステムにおいて最もクリティカルなルールですが、いかなる法律にも「挨拶すべし」「謝罪すべし」などとは一行も書かれていません。
我々は「法律で定められているから」挨拶をしているわけではないのです。
というか、そもそも冷静に考えてみれば、我々は現行の法律の条文などほとんど知りません。
刑法や民法の条文を正確に暗唱できる人など専門家でも一握りですし、世の中に無数に存在する法律のすべてを把握することなど誰にとっても不可能です。
それにもかかわらず、法律の条文などろくに知らない人間同士が、日々街を行き交い、取引をし、ほとんどトラブルを起こさずに平和に共存できています。
なぜそんなことが可能なのかといえば、国家が定めた法律(人定法)が存在する以前に、社会には「自然法」とも呼ぶべき自生的な規律、すなわち慣習法が存在するからです。
「人を傷つけてはならない」「他人のものを奪ってはならない」といったことは、条文が刻まれたから生まれたルールではなく、人間が共生していくプロセスの中で自然と編み出されてきた、社会生活のための知恵です。
成文法とは、そうした自生的な規律が破られた際の境界線やペナルティを、後から人間が便宜的に文字化して制度に落とし込んだものに過ぎません。
つまり、成文法という人工的なルールブックがなくても、社会には最初から「法」の規律が満ちているのです。
自然界を見渡してみれば、これは人間社会に限った話ですらありません。
例えばアリの群れを観察してみると、何千何万匹というアリが見事な統率力で餌を運び、巣を築き、高度な社会生活を営んでいます。
当然ながら、アリの巣に議会や裁判所はありませんし、「第1条:食糧は巣に持ち帰るべし」などという成文法が壁に刻まれているわけでもありません。
文字も条文も持たない彼らですが、何らかの暗黙のプロトコルに従って、驚くほど自律的かつ規律正しく動いています。
人間社会のベースも、これと本質的には何も変わりません。
そう考えれば、社会を動かしている本体が法律などではないことは自明でしょう。
この巨大で暗黙のビジネスロジック(慣習法)こそが、日常を動かす真の原動力であり、言ってみれば「社会そのもの」なのです。
99.9%の日常は、警察や裁判所の出番など必要とせず、この慣習法という正常系ルートの上で、エラーもなく滑らかに実行されているわけです。
では、法律(成文法)の役割とは何か。
それこそがまさに「例外処理」です。
「列に割り込んで殴り合いになった」「代金を払わずに商品を奪って逃げた」「契約を結んだのに反故にされた」など、社会の本体である慣習法だけではどうしても処理しきれない致命的なエラーが発生したとき、初めて「法律」というcatchブロックに処理が移るわけです。
警察や裁判所、刑務所といった国家権力は、当事者間での問題解決が困難になった時のための、巨大なtry-catch機構に過ぎません。
そう考えると、冒頭の「法律に違反していなければ何をしてもいい」という理屈は、現実社会としてかなり無理があることが分かります。
例えばサッカーにおいて、相手選手が接触で倒れて起き上がれないのを見て、味方が攻撃のチャンスであるにもかかわらず、あえてボールをタッチラインの外に蹴り出すシーンをよく見かけます。
そして試合が再開されるとき、相手チームもスローインからそのボールを元のチームへ返してゲームを再開します。
この一連のやり取りは、サッカーの公式ルールブックのどこを探しても一行たりとも義務としては書かれていません。
ルール上は、倒れている相手を無視してそのままプレーを続けても(審判の笛が鳴るまでは)反則ではありませんし、ボールを返さずそのまま攻撃を仕掛けても得点として認められます。
しかし、もし「ルールブックに禁止と書いていないから」とそんなプレーをする選手がいれば、スタジアム中の観客から激しいブーイングを浴びるでしょう。
サッカーという競技は、成文化されたルールだけで成り立っているわけではありません。
選手同士のリスペクトやフェアプレーという「明文化されていない不文律(慣習法)」が、その土台を支えているのです。
審判の笛やイエローカードといったルールは、ゲームが荒れて選手同士の自律的なプレーが困難になったときに介入するセーフティネットに過ぎません。(サッカーそのものは審判が存在しなくてもプレーが可能であり、子ども同士が集まって遊ぶ場合は誰も審判なんてしません。)
「反則を取られていないのだから何をしてもいい」と居直る選手ばかりになれば、試合は壊れ、そもそもスポーツとして成立しなくなります。
白黒はっきりとルールですべてを縛ろうとする社会は、一見すると厳格で正しく見えますが、その実態は1プレーごとに試合を止め、VARで数分間チェックし続けるような、息苦しくて不健全なシステムでしかありません。
選手たちが相手への敬意と阿吽の呼吸でボールを繋ぎ、素晴らしい試合を創り上げるように、我々もまた、法律やルールという最後の砦に頼り切るのではなく、日々の良識や暗黙の信頼を洗練させていくことこそを目指すべきなのです。
……もっとも、昨今の「コンプライアンス」を見ていると、現実はまったく逆の方向へと突き進んでいます。
誰かがルールの穴を突くたびに、新たな制約や承認フローという名の例外処理が増設されていきます。
そうしてルールを固めすぎた結果、本来なら阿吽の呼吸で回っていたはずの日常が、過剰な手続きの摩擦によって身動きの取れない機能不全に陥っています。
「法に触れていなければ何をしてもいい」という傲慢と、「規約で縛らなければ何も信用できない」という猜疑心。
その両者に挟まれて息苦しくなっていく社会の中で、本当に退場させられているのは、ルールを破った者ではなく、我々の日常そのものなのかもしれません。
Tag: 仕事
実はここ一年ほど、このブログの文章は一度AIに全文のベースを書いてもらい、それを元に自分でブラッシュアップして仕上げるという形をとっています。
さらに最近だと、自分があるテーマをAIに振って、そこからAIとのやりとりを重ねて、その結果をまとめて記事のベースにしています。(このエントリがそうです)
AIが吐き出す最初の文章は、文法的に正しく、論理も通っており、非常に綺麗にまとまっています。
何もないゼロの状態から「それっぽい90点」の雛形をわずか数秒で出力する能力において、もはや人間はAIに太刀打ちできません。
しかし、AIの出力した「90点の文章」をそのまま自分の文章として公開しようという気には絶対になりません。(過去に一度ほぼそのままの文章を出したことがありますが、他人からすれば自然に見えるのかもしれませんが、個人的には自分の文章ではないという感覚が拭えません)
なぜなら、自分を学習させてからアウトプットしてもらったのにも関わらず、そこに自分の核というか、魂のようなものを全く感じることができないからです。
もしくは微妙に自分の経験と感覚からズレているのを感じるからです。
この現象は、文章作成に限った話ではありません。
たとえばシステム開発であっても、AIは美しく高度なコードを爆速で吐き出しますが、それが「賢すぎる」がゆえに、現場の人間が後から保守・運用しようとした時に理解が置いてけぼりになる(ブラックボックス化する)という問題を引き起こします。
過去のコードのツケとの泥臭い辻褄合わせや、生身の人間が運用できるレベルにまで意図的に「賢さを落とす(分かりやすくする)」といった、現実社会と地続きの調整作業がすっぽりと抜け落ちているのです。
個人開発ならいいでしょうが、チーム開発となるといくらAIが凄くても、人間の統率をとることまでは無理です。
話を文章作成に戻しても、構造は全く同じです。
論理的に正しすぎる綺麗な文章は出てきますが、読者の心にゾワッとしたしこりを残すような絶妙な「毒」や、現実社会ならではの「暗黙の了解」や「世間の流行り」を含ませることができません。
賢く、よくある教訓めいた無難な結末に落ち着こうとするのです。
AIは過去の膨大なデータから「次はこういう展開が来る確率が高い」という予測を立てることはできても、人間が現実世界で生きて、経験し、皮膚で感じたことのある「生身の体験」を持っていません。
だからこそ、体裁を整える「90点」までは異常な速度で到達できても、圧倒的な実用性や人の心を動かすための「最後の1割」を埋めることがどうしてもできないのです。
私自身がAIの生成した文章に感じていた「何かが足りない」という感覚の正体は、ここにあります。
これは物流や通信ネットワーク、あるいはシステム開発の世界において、目的地の直前である最後の区間のコストや難易度が指数関数的に跳ね上がる「ラストマイル問題」と全く同じ構図です。
現在のAIシステムにとって、この90点から100点へ至る最後の1割こそが、最も遠く、深く立ち塞がる「ファイナルディスタンス」に他なりません。
厄介なことに、AIの出す80点〜90点のアウトプットは「完成品として成立している」「なんか良さそう」と思わせる強い魔力を持っています。
昔であれば、自分で書いた文章が下手なら「下手だから直さなきゃ」と自覚できましたが、AIが一瞬でそれっぽいものを出してくると「まあこれでいいか」と思考を乗っ取られやすくなります。
逆に言えば、AIが生成したアウトプットを見て、この「ファイナルディスタンスの違和感」を全く感じない人たちがいるのです。
彼らは大きく分けて2つのパターンに分類できます。
一つは、そもそも「100点(本物)」の基準を持っていない人です。
自らの手で血肉を削って100点のアウトプットを出し、誰かの心を深くえぐったり、実社会の泥臭いトラブルを解決したりした「生身の経験」がないため、90点と100点の間に横たわる決定的な違いが見えていません。
もしくは、その業界のトップオブトップスに触れたことがなく、100点に満たないものを100点と誤認しています。
もう一つは、「現実の矢面に立っていない人」です。
自分がAIに作らせた成果物が現実社会でどう機能し、どんなエラーを起こすかという「最終的な責任」を背負っていません。
責任の範囲が「とりあえず提出するまで」で切れているため、最後の1割(人間の理解の追いつかなさのフォローや、泥臭い文脈のすり合わせ)が欠落していても痛くも痒くもないのです。
AIの吐き出す長い文章をそのままチャットに貼り付けてしまうような人は、それを読む人の解釈コストの支払いを踏み倒しています。
世間はAIが90点を爆速で出せることに熱狂し、違和感を持たない人々はそれをそのまま垂れ流します。
しかし、現実社会において価値が発生するのは常に「100点として完成しきったアウトプット」だけです。
80点や90点あったとしても100点でない商品は不良品として扱われ、市場から弾かれます。
「2、3本くらいチョコのかかってないポッキーが入ってても大丈夫やろ」とはなりません。
建築において素材の長さが一つでも違えば建物は建たないし、プラモデルでもパーツが一つ足りないだけで完成品を拝むことが叶わなくなります。
100のうち99が完璧でも1が欠けていればそれだけで全部がダメになることは往々にしてありますし、それはAIにとっても例外ではありません。
さらに、100点に満たない作業の積み重ねはより厄介な問題を生み出します。
9割という数字は、単発だと1に近いですが、それらがたくさん掛け合わさってくるとどんどん1から離れていきます。
0.9を3回掛け合わせるだけで0.72になり、10回だと0.35、20回だと0.12まで下がります。
自分では1だと思い込んでいるものが、気づけばそのほとんどが消失している、ということになるのです。
この時の想定と実際の認知差が、「認知負債」と呼ばれるものに他なりません。
これからの時代、AIを使う上での決定的な分水嶺になるのは「良いプロンプトを書けるか」ではありません。
AIが出してきた無難な答えに対して「なんか違う」という言葉の違和感を拾い、原因を言語化し、自分の感覚に置き換えられるかどうかです。
先月のショートショートも当然AIに作らせたもの(もちろん最初のベースのストーリーを出力するために何回もリテイクをかけています)ですが、自分でも少し表現に赤入れをしています。
「アンドロイドからiPhoneへ無理やりデータをやり取りする」という表現はもともと「異なるOS間のデータ変換」というAIが生成した言葉を、自分なりに言い換えたものです。
ここで「いや、なんかこの表現微妙だな」と感じ、自分がより日常感のある表現に置き換えて、読み手のアンテナにフックするような言い回しにしました。
このように、「意味は合ってるけど、この言葉じゃない」「論理は通ってるけど、なんか薄い」という細かいズレを拾える人間だけが、AIの出力を合格点まで磨き上げることができます。
AIが誰でも使えるようになったことで、表面的には人間同士の能力差を埋めているように見えます。
しかし現実は逆です。
AIの出力に対して違和感を持てる人間と、違和感を持てずにそのまま採用してしまう人間の差を、AIは残酷なまでに増幅・拡大させる装置になります。
真のAIリテラシーとは「AIに何を聞くか」ではなく、「AIの答えに何を感じるか(どこを疑えるか)」に移行していくのです。
AI単体で100点を出せない以上、結局一番しんどくて重要な「最後の仕上げ(ラストマイルの走破)」は人間がやらなければなりません。
AIが出してきた90点のアウトプットに満足せず、足りない10点の粗(あら)を正確に見抜き、人間の理解できる範囲に落とし込み、現実の泥臭い要素を注入して、魂を吹き込むのです。
人間が「ゼロイチの案出し」や「ベースの構築」という9割の労力をAIに任せてショートカットできるようになった分、我々は残ったエネルギーのすべてを「ファイナルディスタンスを飛び越えるための1割」に注ぎ込まなければならないのです。
逆に、9割のアウトプットをそのまま積み上げている人は、ラストマイルの走破をサボっている上に、不良品で賽の河原の石積みをしているだけなのかもしれません。
オーバードキュメンテーション
慣習法と成文法
完成までのファイナルディスタンス
> エントリ一覧 |
2026/11/02
> エントリ一覧 |
2026/10/01
> エントリ一覧 |
2026/09/01