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デザインシンドローム

世の中には「賢い」と言われる人と、「勘がいい」と言われる人がいます。

この二つは、似て非なるものです。

賢さとは、過去のデータや論理の積み重ねによって、既知の問題に対して最適解を導き出す能力のことです。

しかし、未知の問題に対する能力は、この賢さとは別物です。

なぜなら、未知の問題に対する正解は存在せず、因果の繋がりは結果が出てからでないと評価ができません。

結果としての最適解が常に賢さと比例しているわけではないからです。

例えば、USJや西武園ゆうえんちの再建劇を見れば、同じ仕掛け人が手掛けるイマーシブ・フォートやジャングリア沖縄も成功するように思えます。

しかし、現状そうはなってはいません。

これは賢さだけではどうにもならず勘も外れてしまった結果でしょう。

なんならUSJもどちらかといえば賢さではなく勘の良さの勝負で勝ったのではないでしょうか。

賢さだけでうまくいくなら、東大生は全員億万長者になっていないとおかしいです。

賢さとは、膨大な知識ベースから適切なパターンを検索し、適用する能力に過ぎません。

これは一種の、記憶力と検索アルゴリズムの優秀さと言えるかもしれません。

あらゆる種類の学力テストは、この能力を試すものと言えるでしょう。

公式の認知量と問題に対する公式の適用力が学力に直結します。

一方で、「勘」とは何でしょうか。

それは、情報が不足している状況、あるいは論理だけでは説明がつかない未知の状況において、良い結果を導く決断を下す能力のことです。

将棋の棋士が、数十手の先読みを省略して「この一手だ」と直感するあの感覚に近いものです。

将棋にも過去のデータや理論の積み重ねが存在しますが、タイトル戦の対局となると、それ以上の何かがないと勝ち上がれません。

8大タイトルを総なめにしたとしても、その次の勝負で打ち負かされる可能性はあるのです。

時間的な制約もあり、純粋な賢さだけで次の一手を繰り出しているわけではないのです。(純粋な賢さでいうとすでにAIが人間を圧倒しています)

そういった未知の一手で試合を優位に運ぶことができれば、それは「勘がいい」し、逆に形勢不利な状況に追い込まれたら「勘が悪かった」となります。

つまり、ここまでの話だけで言えば、勘とは個人の内部に宿る属人的な能力、ということになります。

しかし、本当にそう言い切ってしまっていいのでしょうか。

ここで一つ、あえて疑問を提起してみたいと思います。

私たちが普段「勘がいい」と呼んでいる現象は、本当にその人自身の能力によるものなのでしょうか?

例えば、誰かが新しいアプリを使い始めたとき、説明書も読まずにスルスルと操作できたとします。

もしくは最新のスマホゲームなどでもそうです。

齢70近い自分の親でも、スルスルと操作してスマホでゲームを楽しんでいます。

自分の子供時代を思い返すと、老人がデジタルゲームに興じるなどとはつゆほども想像していませんでした。

それはさておき、この時のスルスル操作はユーザーの勘の良さに依存しているのでしょうか?

それはどちらかといえば、その人の勘が鋭いからではなく、単にそのアプリやゲームが「そう操作するように」意図的にデザインされているだけではないでしょうか。

制作側がユーザーの視線誘導や心理モデルを計算し尽くし、自然と「ここではこのように操作する」と思わせるデザインを施しています。

ユーザーは自分の直感で動いたつもりになっていますが、実際には制作者の掌の上で踊らされているに過ぎないのです。

ゼルダやマリオのボス戦で、自然と撃破方法を探り当てられるのはプレイヤーの勘が働くようにデザインされているからです。

ドラクエなどのRPGであれば、なんとなく普通にプレイしているだけで、なんかいい感じに冒険が進むのも、緻密に計算されたレベルデザインがあるおかげです。

少し前に摩擦の効用について書きましたが、優れたデザインとは、この思考の摩擦を極限までゼロにする行為です。

いわば、デザインとは人の賢さに頼らず、習性や本能に働きかけて相手の勘を引き出す作為と言えます。

逆に相手の勘を引き出せずに、むしろ鈍らせるデザインは「悪いデザイン」となるでしょう。

UX(ユーザー体験)が悪いと感じるのは自分の勘が外れてしまった結果なのです。

現代人は、デザインという「意図」によって、自分の勘がうまく働いているように錯覚させられる、ある種の疾患に罹患している状態なのです。

現代社会は、デザインされたオブジェクトやアイコンで埋め尽くされています。

コンビニの陳列、ウェブサイトの導線、ゲームのレベルデザイン、ピクトグラム、あるいは文明・文化そのもの。

あらゆるものが、私たちが「勘よく」振る舞えるように設計されているのです。

その結果、私たちは自分が有能であるという心地よい錯覚に陥りやすくなります。

「自分は勘がいい」「物事の本質がわかる」と思わされているのです。

ですが、それは温室の中での全能感に過ぎません。

ビニールハウスから外に出て、人間による加護が介在しない野生に直面したとき、その「勘」は途端に通用しなくなります。

例えば、株式市場を考えてみてください。

この世の全ての経済知識、金融工学、過去のチャートパターンを頭に叩き込んだとしても、ある銘柄の明日の終値を1円単位で確定させることはできません。

そこには、誰かの親切なデザインも、正解への誘導も存在しないからです。

そこに存在するのは無数の欲望と偶然が交錯するカオスだけです。

カリスマトレーダーも精巧に解析された金融工学も、ある程度確度の高い未来予測を提示することはできても、未来を確定させることまではできません。

そこでは「こうすればうまくいくはずだ」という、デザインされた世界で培った「勘」は、むしろ邪魔になることが多いのです。

上げ相場と踏んで最高値で買ってしまってそれ以後下げ続けたり、損切りのタイミングを逃して含み損を増やし続けたり、最安値なのに下げ相場と踏んでこのタイミングで損切りしたりしてしまうのです。

「勘がいい」という自己認識は、実は「飼いならされている」ことの証左かもしれません。

そうやって虚構の誘惑に乗せられて数多の人が投資という博打で痛い目に遭っているのです。

誰かが敷いたレールの上を脱線せずに走るのが上手いだけ、これはこれである種の勘の良さの一つでしょう。

それはそれで社会適応能力としては高い評価を得るでしょうが、未知の領域、誰も正解を知らない荒野に放り出されたとき、最初に遭難するのはそういうタイプだったりするのです。

地図を読むのと描くのとでは、全く別の能力が要求されます。

デザインされた正解に慣れすぎると、現実には「正解がない」という状態であるのにも関わらず「正解がある」という錯覚に陥ってしまうのです。

極論を言ってしまえば、国や通貨も文明によるデザインの産物であり、客観的に見れば、それは概念上の存在でしかありません。

異世界転生でアナーキーな世界に転生してしまったら、頼れるものは本来の意味での勘だけです。

自分の「勘」だと思っていたものが、実は他者の「意図」であったと気づくこと。

そこから初めて、本当の意味での思考が始まりますし、最近の哲学ブームはそういったことが土台としてあるのでしょう。(知らんけど)

もちろん、優れたデザインの恩恵を否定するつもりはありません。

ですが、その心地よさに浸りすぎて、思考の野生を失ってはいけないのです。

勘がいいと思い込んで突っ走った先に待っているのは大抵バッドエンドです。

ビギナーズラックでギャンブルにのめり込んでいった人の末路と同じように。

Tag: 社会

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ナラティブウィンドウ

昨年はClaude Codeをはじめ、Sora2やNano Banana Proなど、AIの飛躍的な進化を感じられる一年でした。

そこで今回は自分自身でAIを扱ってみた上で色々考えたことをまとめていこうと思います。

まず、ChatGPT登場の頃から現在に至るまで、ずっと言われていることで「AIが人間の仕事を奪う」があります。

私自身はその言説に対してとても懐疑的な立場でしたし、去年の飛躍的な進化で、むしろ逆に自分の仕事が増えてしまう、と危惧すら抱いています。

数年前に自動運転技術によってバスやタクシーの運転手は不要になるから、その仕事に未来はない、みたいな話が持て囃されていました。

ところが今はどうでしょうか?

バスの運転手不足で路線の廃止や減便が発生し、一部地域の人たちの日常生活に死活的な影響を及ぼしています。

将来的には無くなるのかもしれませんが、今現在においては高齢化社会による現役世代の減少により、むしろ需要は高まっています。

AIが発展するたびにビジネスインフルエンサー的なサムシングが「この仕事は将来なくなる!」と声高に叫びますが、少し現実に対して無責任すぎます。

実際に将来無くなるにしても移行期は存在するわけですから、担い手を断絶するような言説は適切ではありません。

最近でも、バイブコーディングという概念が生まれて「もう人間がプログラムを書く必要がない」と言われていますが、私からすれば「寝言は寝て言えよ」という気分です。

私がシステム開発にAIを導入して感じたことは「これ、仕事がなくなるんじゃなくて逆に仕事が激増するんじゃね?」でした。

AIは確かにとても賢くて、ちょっとした指示を出すだけで大量のコード(なんだったら文章も)を生成してくれます。

しかし、AIの生成物には圧倒的に足りないものがあります。

ここで「続きを読むには有料会員になってください」と挟みたいところですが、ここは無料の個人ブログです。

AIの生成物に足りないものは一体なんなのでしょうか?

AIの生成物に足りないものを早く言いたいのですが、もう少し我慢してください。

というか、少し間を空けたせいで足りないものがなんだったのか忘れてしまいました。

一旦仕切り直して、AIについて改めて考えてみましょう。

AIが得意なのは模倣と量産です。

会話や文章はおろか、今では画像、動画に至るまで、ちょっとしたプロンプト(AIに対する命令)で誰でも簡単にいろんなアウトプットを生成できます。

しかも、ぱっと見のクオリティは高い。

全くプログラムが書けない人が実際に動くコードを生み出せる。

全く絵の描けない人が自分では到底描き上げられない絵を生み出せる。

映像制作のノウハウが全くなくてもショート動画くらいなら簡単に生み出せる。

インターネットがメディアを一般市民に開放したように、AIはコンテンツ生成能力を一般市民に開放したのです。

世はまさに大コンテンツ時代になりました。

しかし、AIの生成物には圧倒的に足りないものがあります。

そう、戻ってきました。

AIの生成物に足りないものを早く言いたいのです。

もうレイザーラモンRG的なノリはいいでしょう。

AIの生成物に足りないものを早く言いたい。

先ほどの話、今までのブログの内容、そして当エントリのタイトル。

勘のいい人はピンときていると思います。

そう、AIの生成物に足りないものは「コンテキスト」です。

生み出した「コンテンツ」単体としてのクオリティは確かに高いと思います。

しかしナラティブのようにコンテンツをコンテキストに昇華・順応させるのはAIにはまだ難しいようです。

先月、試しにこのブログの文章を丸々AIに書いてもらいました。

その記事の最後にも書いた通り、そのクオリティの高さ、自分の文体の模倣度に感嘆しました。

正直「これもう、自分で文章書かなくても毎月AIに文章書かしても同じなのでは?」と思いました。

確かに自分が書いたように見せかけてAIに文章を書かせても、8割方の読者はこれから先も気づかないと思います。

そもそもこの文章が私(人間)が書いたものかAIが書いたものか分別できますか?

その辺のネタバラシは最後に取っておくとして、自分が文章を書くことについての価値が揺らいだのは事実です。

その後、さらに試しに翌月(このエントリの分)もAIに何個か書かせてみました。

結果は、今この文章を読んでいれば分かりますが、当然ボツです。

確かに文章のクオリティも文体の模倣度も内容もとても良くできていました。

しかし、私自身が読んだ感想が「過去の自分の擦り潰し」のようにしか感じませんでした。

私自身がずっと文章を書き続けているのはあくまでも自分のクリエイティビティに心酔しているからです。

AIが生成した文章からはクリエイティビティまでを感じ取ることはできませんでした。

このブログはいわば、私という存在のナラティブです。

ですので、新しい文章にはちゃんとナラティブを紡いでほしいのです。

ただ単にそれっぽい文章を書き続けるだけなら全然AIでもいいのです。

しかしそれだと私の中でこのブログの存在意義がなくなってしまいます。

誰でも書ける文章であるならば、それをわざわざ自分で書こうとは思いません。

自信過剰かもしれませんが、私は自分の書く文章は自分にしか生み出せないと思っていますし、世に溢れる8割方の書籍やブログの文章よりも自分の文章の方が優れていると思っています。

だからこそ、新しく書く文章には何かしらのアウフヘーベン的なサムシングが欲しいのです。

何故かルフィが海賊王を目指さなくなってクルーの日常を描くようになったワンピース。

暗黒大陸を目指す船から一変して、念を使えないゴンの当たり障りのない日常を描くハンターハンター。

コンテンツとして成立はするでしょうがみんなが読みたいのはそれじゃないでしょう。

コンテキストあってのコンテンツであり、コンテンツ単体には実はあまり価値はないのです。

野球(コンテキスト)あっての大谷翔平(コンテンツ)であり、野球のない世界の大谷翔平はただの無名の超人です。

よって、いくらコンテンツ単体のクオリティが高くても、コンテキストがお粗末であれば砂上の楼閣になってしまいます。

草野球で大谷翔平と同等の身体能力を発揮しても1000億円のお金は動きません。

現状のAIは、人類が積み上げてきた莫大な知識量を活かす事はできますが、利用者個々のコンテキストを把握し(続け)たり、コンテンツを紡いでナラティブを築くことは苦手です。

そして、この現実はAIを扱う人間の活用能力の格差を引き起こしています。

最初の方で私が危惧していた、AIが逆に仕事を増やす懸念はここに繋がります。

「AI→生成」とAIを基軸にAIを使おうとしている人は軒並みダメであり、「人→生成→AI→生成」とあくまでも人間基軸の使い方をしないと生産性に結びついていない気がします。

前者は目に見えてアウトプット量が増えるので短期的にはプラスに見えますが、長期的にはその圧倒的なアウトプット量が認知的過負荷を生み出し、マイナスに滑り落ちていきます。

人間がコンテキストを掌握しているかしていないかで長期的な生産性に致命的な格差を引き起こします。

AIのアウトプットに無理やり自分を合わせてしまったり、もしくは「木を見て森を見ず」みたいに目の前のアウトプットだけに気を取られて長期的な視野が欠けている場合、その認識の有無に関わらず、本来であれば実務上仕上がってくるはずのコンテキストが欠損してしまいます。

先ほど書いた通り、現在のAIにはコンテキスト力が不足しています。

その不足分のコンテキストはまだ人間側に委ねられており、その有無でアウトプットの品質が大きく変わるのです。

AIをベースにアウトプットを錬成するのではなく、人間側のアウトプットをベースにAIでフィードバックループを回す使い方をしなければ、逆にAIに使われることになります。

あくまでも創造性は自身に宿っている必要があり、コンテキストやベースを欠いた状態でいくらAIを駆使したところでAIを有効的に活用することはできません。

AIが出力するアウトプットは高速で大量であり、ちょっとでも気を抜けば、むしろその圧倒的なコンテンツ量で人間側のコンテキストを破壊してくるのです。

よって、現時点での正しいAIの使い方は、あくまでも人間がコンテキストをきちんと把握した上で、AIにコンテンツを生成してもらうことです。

逆のパターン、AIを主軸にして人間がそのコンテキストに従うような使い方はアンチパターンとなるのです。

一応、LLM(大規模言語モデル)にはコンテキストウィンドウがあり、一定量のやり取りの記憶を保つ事は可能です。

しかし、それも人間が抱えているコンテキスト量と比べれば月とスッポンです。

ノウアスフィア(人類が積み上げてきた莫大な知識量)を扱う事はできても使用者個人個人のセッションを全て記憶しておくことはできません。

どこまで賢くても翌日に記憶を持ち越せないなら、長期的で偉大な仕事を成し遂げることは不可能です。

シンギュラリティに到達するには少なくとも無尽蔵のコンテキストウィンドウ、すなわちナラティブウィンドウは必須でしょう。

最後にこの文章がAIが書いたのか人間が書いたのかのネタバラシですが、この文章の最初の部分に「AIに足りないのはコンテキスト」の解答を提示するまであえて冗長な文章構成で書きました。

雑に「1月分の文章を書いて」の指示だけでAIがこんな芸人ネタを用いた上でまどろっこしい書き方をするのは不可能です。

しかし、コンテキストを自分が完全に掌握した上で事細かに指示を出せばこういった文章も作成可能ではあるでしょう。(ちなみにこの記事は一切AIに書かせていません)

Tags: 社会, 仕事

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障害なき絶望と摩擦という希望

前回はClaude Sonnet 4.5に記事を書かせてみましたが、ついでにGoogle Gemini 3 Proにも記事を書かせてみました。

個人的な採点はClaudeが80点でGeminiは60点ぐらいです。

今回の記事は結果的にかなりプロンプトのやり取りをした上、さらに自分で直接文章を指定したので全部AIに書かせたとは若干言いづらいですが……

ちなみに著者はレコードをかけたこともなければコーヒー豆を挽いたこともありませんのであしからず。


最近、あらゆるものが「スムーズ」になりすぎている気がする。

Amazonでポチれば翌日に荷物が届く。

動画配信サービスで観たい映画が即座に再生される。

分からないことがあればAIが瞬時に答えを教えてくれる。

私たちの社会は、徹底的に「摩擦」を排除する方向へ進化してきた。

効率化こそが正義であり、待ち時間や手間といったノイズは悪であると。

しかし、摩擦が完全にゼロになった世界で、私たちは本当に「生きている」という実感を持てるのだろうか?

例えば、レコードで音楽を聴く行為を考えてみてほしい。

ジャケットから慎重に盤を取り出し、ターンテーブルに載せ、針を落とす。

そこには物理的な手間、そして針と盤が擦れ合う摩擦がある。

だが、その摩擦こそが「これから音楽を聴くぞ」という儀式として機能し、体験の解像度を高めているのではないか。

Spotifyでワンタップで再生される音楽は便利だが、どこかBGM的で、消費されるだけのコンテンツになり下がっている気がしてならない。

これは便利さは感謝を失わせるという話にも通じるが、もっと根源的な「質感」の話だ。

ツルツルの氷の上を歩くのが難しいように、人生にもある程度の「引っかかり」がないと、私たちは前に進んでいる感覚を得られない。

摩擦は、移動を妨げる抵抗であると同時に、移動を可能にするグリップ力でもあるのだ。

もちろん、摩擦が強すぎると前に進むことすらできず、人生はただの苦役になってしまう。

だが、現代はあまりにも摩擦係数がゼロに近づきすぎている。

試行錯誤というプロセスもまた、摩擦そのものだ。

失敗し、悩み、遠回りする。

効率至上主義の観点から見れば無駄でしかないその時間が、実は私たちの中に「経験」という名の沈殿物を残していく。

AIに答えを聞けば、摩擦なしに正解に辿り着ける。

だが、そこには「納得」という手触りがない。

他人の答えを借りてきただけで、自分の血肉にはなっていないからだ。

人間関係においても、私たちは摩擦を忌避しすぎている。

一昔前であれば常識や「当たり前」のイデオロギーを維持するための副作用として、そこから外れた人は強制的に人格矯正の研磨(摩擦)にさらされる圧力があった。

しかし、多様性やジェンダーレスという概念がその摩擦を排除してしまった。

その結果、今では「誰かを不快にさせるリスク(摩擦)」を極限まで減らすことが最優先され、エコーチェンバーの加速と社会の分断化が進んでいないだろうか。

ハラスメント認定を恐れるあまり、私たちは行動を抑制し、他者と深く関わることを避けるようになった。

傷つかないし、傷つけない。

その関係性は確かにスムーズだが、それだと他者という「異物」と衝突した時に発生するエネルギーが生じなくなる。

エネルギーが生じないということは、生きる活力も湧かないということだ。

私たちは今、あえて「摩擦」を設計に取り入れるべきフェーズに来ているのかもしれない。

UIデザインの世界では「フリクションレス」が良しとされるが、人間工学的には、適度な抵抗感があった方が操作ミスは減るし、操作したという確信も得られる。

iPhoneのホームボタンが物理ボタンから感圧センサーに変わった際、わざわざ振動で「押した感」を擬似的に再現したように。

人生も同じだ。

何でも思い通りになる世界は、きっと退屈で死にたくなるだろう。

思い通りにならない現実、理解できない他者、解決できない悩み。

そういった摩擦係数の高い要素こそが、私たちの生を「リアル」なものにしている。

「面倒くさい」は、実は「生きている」の同義語なのかもしれない。

だから私は、今日もわざわざ豆を挽いてコーヒーを淹れる。

全自動のエスプレッソマシンの方が早くて美味しいかもしれないが、あのゴリゴリという感触と香りがなければ、私の朝は始まらないのだ。

摩擦を愛そう。

それが、自動でスルスルと過ぎ去っていく時間に対する、唯一の娯楽なのだから。

Tags: 哲学, 社会

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