< ウォーリーをさがすな | 自己達成感はクリエイターに必要な才能 >
文章量:約3400字

アウフヘーベン

今まで自分の書いてきた文章を読み返しているとヘーゲルの弁証法的な考え方が多々あると、ふと気づきました。

そこで今回は今までのエントリを振り返って、自分の過去の思考を辿ってみたいと思います。

ヘーゲルの弁証法的な考え方というのは簡単にいうと、命題(当たり前・常識・前提条件)を否定することで自分なりの考えを捏ねくりだすことです。

このときの命題をテーゼ、否定をアンチテーゼ、自分なりの考えがジンテーゼ、捏ねくりだす行為をアウフヘーベンと呼んだりするそうです。

それでは過去の自分がどのようにアウフヘーベンしてきたのか振り返ってみましょう。

このエントリでは頑張ることよりも普通にいることのほうがなぜ素晴らしいかの説明をしています。

「頑張ることがすごい」という当たり前を否定し、アウフヘーベンした結果、ニュートラルである「普通」のほうがすごいというジンテーゼを導き出しました。

このエントリでは0から1を生み出す価値を否定するまではいかないまでも、1を生み出した先のほうが大変だぞ、といった内容になっています。

0→1の仕事の尊さに少し疑問を投げかけ(アンチテーゼ)、1→1の仕事の価値を見出す(ジンテーゼ)ためにアウフヘーベンしました。

このエントリでは「プログラマー=理系」という常識を否定し「プログラマー=文系」という新しい見方(ジンテーゼ)を提示しています。

文系・理系という枠組み自体に疑問を呈することでアウフヘーベンしています。

数式やコードは文章をロジカルに表現し直しただけ→ということはコードは文章を継承したものに過ぎない→じゃあ文系じゃん、といった流れです。

タイトル通り頑張りを褒めることを否定する内容のエントリです。

褒めるべきは結果であって、頑張りを褒めても頑張りが再生産されるだけです。

結果を生みたいなら結果を褒めましょう。

そもそも「頑張りを褒める」がテーゼになっているのが解せません。

個性の存在自体を否定してしまう思い切ったエントリです。

パーソナリティーを否定することで環境要因の重大さ(ジンテーゼ)を提示する内容になっています。

『ケーキの切れない非行少年たち』を読んでもらうと非行の原因が少年自身にあるのではなく、少年を育ててきた環境に問題があったことが分かりやすく書いてあります。

意味がないことを否定して意味があることにしています。

もはや意味不明ですね。

中の内容はちゃんとアウフヘーベンしているので意味がない意味は意味があります。

このエントリでは自己啓発本によくある「まずは与えよ」を否定しています。

与えることが出来る人は与えるものをすでに持っている人だけ(ジンテーゼ)です。

誰も彼もが与えるものを所持している恵まれた人生だと思うなよ、あまり調子に乗んなよクソが、といった内容になっています。

タイトル通り語彙力を否定しています。

ゆるふわコミュニケーション最強じゃね?(ジンテーゼ)といった内容です。

マクドナルドにいるJKの話を聞いてると10秒に一回「ヤバくね?」って聞こえてきますが別にそんなに「ヤバくなくね?」

とてもわかり易いアンチテーゼの掲げ方ですね。

教育が教えることじゃなかったら一体何なんだ?というお話ですが中身を読んでいただけたら納得してくれると思います。

ネタばらしをすると、みんなが思っている教育は「教えを与える」で、ただの教与であり「教えを育む」のが本当の教育で、教えること自体は教育とは言わないといった内容のジンテーゼとなっています。

ブラック企業は会社がブラックなのではなく(アンチテーゼ)そこに所属する従業員こそがブラックである(ジンテーゼ)といった内容です。

自分が絶対定時で帰るマンだからこそ起こせたアウフヘーベンです。

これもわかりやすいアンチテーゼの掲げ方ですね。

疲弊している人を励ますのがやさしさじゃないか、というテーゼを逆手に取っています。

「やさしさ」を「気遣い」に置き換えると自分が示したかったジンテーゼが見えてきます。

そのやさしさが、そもそも不要になること自体がほんとのやさしさです。

この一文が当エントリのジンテーゼを現していますが、改めて読んでみて自分でいいこと書いたなぁと感心してしまいます。

就活や転職活動によくある仕事に対する興味を主体とした選考基準にドロップキックをかました感じです。(everybody goes)

これも「仕事は楽しい」がテーゼになっているのが解せなかったのが書く動機になっています。

あまりにも解せないので「仕事は楽しむもの」の負の側面をもう一つ別のエントリで書いています。

だから本当は「仕事は楽しいもの」ではなく「つまらない仕事にこそ価値がある」と思わせたほうが世界に対しては優しいのだ。

この一文が当エントリのジンテーゼとなっています。

最後は何故か親鸞を絶賛していますが日本で一番早くマインドフルネスを生み出したのは多分彼です。

一般論的には大きなタスクは細かく分解しましょうというテーゼがあると思います(主にアジャイルで)。

そこにアンチテーゼを投げかけたのがこのエントリです。

内容的には若干『人月の神話』と被るのですが、タスクを分解するほどタスク化からこぼれ落ちた管理観測できない作業が増えていって目に見えないコストも膨れ上がるよ、といった内容になっています。

タスク分解で発生するデメリットの存在を提示するだけのささやかなジンテーゼとなっています。

タイトルだけだと分からないですが、本に書いてある内容を否定して別の因果を提示しているエントリとなります。

本の内容では天才を殺す凶器は凡人の「無理解」による排斥としていますが、自分は「無関心」こそが天才を殺していると考えています。

無理解よりさらに前段階の無関心をジンテーゼとして、その残酷さを説明しています。

プログラマーはアルゴリズムを考える人という一般認識を逆手に取ったエントリとなっています。

ジンテーゼとしてアルゴリズムを知識として持っていることとアルゴリズムを組み上げることは別として後者の大切さを説いています。

このエントリではデータサイエンティストをディスっ…いや失礼、噛みまみた。

データサイエンスという概念に疑問を投げかけて、彼らは科学者ではなく芸術家だよというジンテーゼを提示したエントリとなります。

別に知り合いのデータサイエンティストが胡散臭いとかは1ミリも思っていませんし、データサイエンティスト自体が賤業だともブルシットジョブだともつゆほども思っていません、ええ。

我々が消費しているのは世に溢れる大量のコンテンツではなく、その結果生み出されたコンテキスト(文脈)であるとしたエントリです。

情報過多(コンテンツ消費)社会(テーゼ)を否定してコンテキスト消費という概念(ジンテーゼ)を提唱しています。

コンテンツの味はコンテキストでいかようにも味変できるのでコンテキスト側にコンテンツ消費の本質が存在する、といった内容になっています。

コンテンツの味を吟味することなくコンテキストの味で食事を済ませてしまうことが「わかったつもり」です。

ここの例えが当エントリの核となっています。

自分で書いておきながらいいこと書いてあるなぁ、と思います。(2回目)

このエントリで“anti-liberal”というPath名をつけたときに今回の内容を書こうと閃きました。

他にもいくつか“anti~“で始まるエントリが存在することを思い出し、既存の概念を疑うことで色々と新しい考えを生み出している自分に気づきました。

そしてこの思考様式はどこかで見たことがあるぞ、と思って思い出したのがヘーゲルの弁証法でした。

そして前回書いたこのエントリですが、ウォーリーをさがせ(テーゼ)からのウォーリーをさがすな(アンチテーゼ)を掲げて、リベラルの弊害(ジンテーゼ)について書きました。

ちなみに本の題名が「ウォーリーを探してもいいですよ」だったらエントリに書いてある問題は起きなかったと思います。(タイトルがまどろっこしいのには目つむらないといけないけど)


今までに書いてきたエントリの中で弁証法的に考えてきた内容のものを振り返ってきましたが、そこそこ高頻度で自分はこの思考メソッドを利用していたんだなと、気づくことができました。

みなさんも弁証法的思考を利用していろいろ考えてみてはいかがでしょうか。

レッツアウフヘーベン!

Tag: 哲学